黄飛鴻

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黄飛鴻(ウォン・フェイホン)

プロフィール
出生 1847年7月9日
死去 1924年3月25日
出身地 広東省南海県西樵嶺西禄舟村
職業 武術家、医師
各種表記
簡体字 黄飞鸿
繁体字 黃飛鴻
ピン音 Wòhng Fèihùhng(広東語、Yale式)
Huáng Fēihóng(北京語)
和名表記 こう ひこう
発音転記 ウォン・フェイホン(広東語)
ホワン・フェイホン(北京語)
ラテン字 Wong Fei Hung
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黄 飛鴻 (こう ひこう、広東語: ウォン・フェイホン、中国語: ホワン・フェイホン、1847年 - 1924年)は、中国武術家、医師。元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省南海県(現仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。

中国最後の王朝、清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。父であり「広東十傑」の一人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より、南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん)」を叩き込まれ、父と共に修行の流転旅を続ける少年期を送るが、その技は13歳の時点では既に道場主に匹敵するほどの完成度であり、「少年英雄」と称される。

成長した飛鴻は父と共に各地で武者修行を続けるが、1863年、父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である寶芝林の跡目を継ぎ、欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して、農民たちに武道を教えて自警団を率い、民間レベルで治安の混乱を防いだ。やがて官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。

彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳、梅花拳、梅花十字拳、夜虎出林 二龍争珠、三箭拳、五郎八卦棍 子母刀、飛鉈など、多岐にわたり 高級技法として、五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の 陰陽五行を相克させた拳法) と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。 黄飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」と仇名されるほど多用したと言われる また父、黄麒英伝の五郎八卦棍や、少林五虎の一人鉄橋三(本名、梁坤)の弟子「林福成」から学んだ 鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの、剛強な呼吸法だったと言われる

さらに獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。

1925年没。仏山市の中心地区にある祖廟の隣りに、「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介、関連映画や武侠小説に関する展示などが行われている。

仏山黄飛鴻紀念館の入口

目次

[編集] 無影脚

彼の代表的な(伝説的な)技として有名なのが「無影脚」。正式な技の名称ではないが、その素早さは疾風の如く、地面に足の影さえ映る暇もないほどだったことからこの名で称された、素早い連続足技である。もともと足技主体の北派少林拳の一種の燕青拳の技だったが、飛鴻は北派の武術家・宋輝堂と、自分が伝承してきた洪家拳の技の一つ「鉄線拳」とこの足技を交換教授して会得し、以後は自分の代名詞となるほどに磨き上げていった。

無影脚についての公式な試合記録は数点現存しているが、いずれもその脅威の速度と破壊力に言及しており、足技においては「彼以前も以降もない」とされている。

例えば1867年に香港で英国人実業家が見せ物として企画した「猛犬を素手で倒せたら賞金」というイベントに成り行きで参加しているが、巨大な闘犬によって多くの挑戦者が大怪我を負う中、飛鴻の恐るべき速度の蹴り技によって一瞬で犬は絶命したと、当時の記録に残されている。

[編集] 映画世界一

飛鴻の没直後から、中国各地の新聞や雑誌などで黄飛鴻の武勇伝が盛んに連載されたことを気に、一気に飛鴻の伝説は広まる。彼を題材とした映画は、第二次大戦後である1949年に制作された『黄飛鴻傳上集・鞭風滅髑』(関徳興 クワン・ダッヘン主演)が最初であるが、以降おびただしい数の飛鴻映画が製作され、2007年現在までに香港で製作された飛鴻を描くカンフー映画は100以上であり、同一題材で撮影された映画の数では世界記録を保持している。 彼を主人公にした作品で日本でも著名なものは、『ドランクモンキー 酔拳』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズなどがある。

[編集] 黄飛鴻と香港映画の関係

飛鴻の弟子の一人であり、彼の片腕とされた武術家・林世榮(ラム・サウェイ)の弟子、すなわち飛鴻の孫弟子にあたるラウ・ジャンの息子が、劉家良(ラウ・カーリョン)である。飛鴻直系と言われる洪家拳を父から学んだカーリョンはその完成度の高さから「洪家宗師」と称されるが、もともと父が武術家としての傍らアクション映画に端役で出演していたことから映画関係にも明るく、やがてショウ・ブラザースを始め数多くの香港映画界でクンフー映画の武術指導を手がけ、自身も多くに出演するなどして香港クンフー映画の隆盛を支えた。

また映画の原作も元々は、新聞紙上で連載された黄飛鴻の伝記小説が大変評判をとり 作者の朱愚斎も本来は、林正栄の弟子の武術家である。 彼の小説を映画化にあたり武術家でもあり香港の人気舞台俳優だった關徳興(クァン・タクヒン)の主演で大ヒットを飛ばす この黄飛鴻シリーズは、現在でも最も多い作品数を持つ映画シリーズ(最多84本)としてギネスブックに載っている

[編集] 歴史

  • 1847年道光27年)農暦7月に広東佛山で生まれる。
  • 1853年 5歳で父の黃麒英から武術を習い始める。
  • 1859年 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り”少年英雄”の名を得る。
  • 1860年 13歳のとき、佛山豆豉巷で武術を演じているとき広東十虎の鐵橋三の高弟林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。
  • 1863年 広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始め、この後は見世物の武術を演じなくなった。
  • 1865年 広州の野菜、果物、魚の三組合から武術教練を依頼され、武術を教える。
  • 1866年 西樵官山で盗賊団に遭遇して一人で数十人の盗賊団を撃退する。
  • 1867年 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し、無影脚で瞬殺、その名を轟かせる。
  • 1888年 黒旗軍の劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より〝醫藝精通〟の額を贈られる。
  • 1925年 農暦3月25日 広州城西方便医院で逝去

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