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(たか)とは、タカ目タカ科に属するのうち比較的小さ目のものを指す通称である。 オオタカハイタカクマタカなどの種がいる。

目次

[編集] 名称について

タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ(鷲, Eagle)、小さめのものをタカ(鷹, Hawk)と呼び分けているが、明確な区別ではなく慣習に従って呼び分けているに過ぎない。また大きさからも明確に分けられているわけでもない。例えばクマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシは大きさはノスリ程度であるからタカ類といってもおかしくない。

[編集] 鷹狩

タカ科のオオタカハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサは優れたハンターであるため、古今東西、厳しい訓練を施した後、鷹狩に使うことがされてきた。古語においては鳥狩/鷹田(とがり)、放鷹、鷹野などとも称する。

[編集] 古代

日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(仁徳紀43年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代には主鷹司が廃止され、蔵人所が鷹狩を管掌する。奈良時代の愛好者としては大伴家持が知られる。

平安時代においては、初期の桓武天皇嵯峨天皇宇多天皇醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として「新修鷹経」を編纂させている。中期以降においても、一条天皇白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂在原行平在原業平は鷹狩の名手としても知られた。

鷹狩は文学の題材ともなり、伊勢物語源氏物語今昔物語等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。

[編集] 中世

中世には武家の間でも行われ始め、安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。東山で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である。公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿の持明院家、西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(「鷹書」)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉徳川家康に解説書「龍山公鷹百首」を与えている。一方、武家においても、諏訪大社二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した。

[編集] 近世

戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を廃止したが、八代将軍吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。江戸時代の大名では、伊達重村島津重豪松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名である。

[編集] 近代

明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され、明治25年の「狩猟規則」及び明治28年の「狩猟法」で9年間免許制の下に置かれたが、明治34年の改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している。幕府・宮内省鷹匠の技術は、村越仙太郎(1857?-1937)・花見薫(1910-2002)ら、退職した宮内省/宮内庁鷹匠により民間有志に伝えられ、現在活動している鷹狩従事者(松原英俊を除く)は、特定流派名を名乗るか否かに関わらず、そのいずれかの技術的系譜を引く。 早期の民間団体としては、中西悟堂も発起人に名を連ねた日本放鷹倶楽部(1936)があったが中断した。村越仙太郎に師事した丹羽有得(1901-1993)の門下からは日本鷹狩文化保存会、森覚之丞研究会、吉田流鷹狩協会など、花見薫の門下からは日本放鷹協会、諏訪流放鷹術保存会などが結成されている。大原総一郎が丹羽有得を招聘して設立した日本鷹狩クラブは、その早世後、ある時期に鷹狩の伝統の保存・公開普及という目的から外れ、改組・改名されたらしい。現在同一地所にある日本ワシタカ研究センターなる施設は公開されておらず、組織・活動実態と財産状況は不明である。

[編集] 明治以降(東北)

一方、明治以降、東北地方において、当初士族層・一定の資力のある農民・マタギの間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せた。クマタカの飼育自体は鎌倉時代から見られ(古今著聞集)、中世の鷹書においても「角鷹」への言及が見られる。東北地方の「鷹使い」の起源は明らかでなく、幕末以前に遡る見方もあるが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られる。名手として知られた三浦恒吉(1863-1938)は、院内の伝助なる人物の流れを汲むが、旧戸沢藩鷹匠家の佐々木甚助とも親交があった。東北地方の「鷹使い」は生業鷹匠として発展したが、第二次世界大戦後の経済状況の変化で急速に衰亡し、現在では沓澤朝治(1896-1983)の下で1年間学んだ松原英俊1人が残っているにすぎない。

[編集] 英文Wikipedia

[編集] その他の人間との関わり

  • 縄文時代の遺跡からはタカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている。
  • 鷹の糞は「鷹矢白」(たかのくそ)として、医薬品として用いられたことが平安時代の医薬書である『本草和名』(ほんぞうわみょう)に記載されている。
  • モンゴル中央アジア遊牧民の間では「鷹」という言葉が力ある者の象徴として人名に用いられた。トゥグリル・ベグの「トゥグリル」やオン・ハンの本名「トグリル」はいずれも鷹という意味である。
  • イソップ寓話には『鷹と矢』という話がある。内容は、ある鷹が獲物の兎を狙おうと岩の上から目を凝らしていた。そこへ物陰に潜んでいた射手が矢を鷹目がけて放った。矢は心臓に突き刺さり鷹は倒れた。虫の息の鷹が矢の矢羽根を見ると、矢羽根は鷹の羽で作られていた、というもので「己を滅ぼす者は己である」といった教訓を導く話となっている。
  • 日本中央競馬会所属の競馬騎手、柴田善臣の趣味は鷹の調教である。

[編集] 雑学

[編集] タカをモチーフにしたキャラクター

[編集] 特撮

[編集] その他

[編集] 関連項目

  • タカ目 - ワシ、タカなどの生物学的側面について
  • 柴田善臣- 日本中央競馬会騎手
鳥の一般名の記事
一般名の記事では、種の記事と違った側面(文化的、人との関わりなど)の記述がなされる。
  • (わし)
  • (たか)
  • (がん)
  • (はと)
  • (からす)

[編集] 外部リンク

ウィキクォート鷹に関する引用句集があります。

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