足利義澄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ||||
| 時代 | 室町時代後期から戦国時代 | |||
| 生誕 | 文明12年12月15日(1481年1月15日) | |||
| 死没 | 永正8年8月14日(1511年9月6日)) | |||
| 改名 | 清晃(法号)、義遐(初名)、義高、義澄(別名) | |||
| 戒名 | 法住院殿旭山道晃 | |||
| 官位 | 従五位下、正五位下、左馬頭、征夷大将軍、 従四位下、参議・左近衛中将、従三位、 贈従一位左大臣、追贈太政大臣 | |||
| 幕府 | 室町幕府征夷大将軍 | |||
| 氏族 | 堀越公方足利家→足利氏(将軍家) | |||
| 父母 | 父:足利政知、母:武者小路隆光の娘 養父:足利義政 | |||
| 兄弟 | 足利茶々丸、足利潤童子、足利義澄、 小田政治 | |||
| 妻 | 正室:日野永俊の娘・安養院 継室:六角高頼の娘 | |||
| 子 | 足利義晴、足利義維 | |||
足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代将軍(在位:明応2年(1493年) - 永正8年(1508年)。
[編集] 略歴
父は足利義政の弟である堀越公方の足利政知。母は権大納言・武者小路隆光の娘。第8代将軍・足利義政の養子にあたる。正室は日野永俊の娘・安養院。子に足利義晴と足利義維。出家名は清晃、還俗して義遐、義高、そして義澄。
明応2年(1493年)に第10代将軍・足利義材(足利義稙)が細川政元によって追放されると、第11代将軍として擁立された。しかし政元が暗殺されて後ろ盾を失うと、大内義興の後ろ盾を得て上洛してきた義材との戦いに敗れて京都を追放され、将軍に復帰できないまま近江で死去した。
[編集] 生涯
文明12年(1480年)12月15日、堀越公方の足利政知の子として生まれる。はじめ天竜寺で僧となるが、やがて第8代将軍で伯父に当たる足利義政の養子となった。
明応2年(1493年)の明応の政変で第10代将軍・足利義稙(義材)を追放した管領の細川政元や日野富子らによって擁立され、第11代将軍に就任する。しかしこのため、実権は細川政元や日野富子らに握られていた。
しかし永正4年(1507年)に政元が暗殺されると、永正5年(1508年)4月に大内義興に擁立された前将軍・足利義稙が中国地方の軍勢を率いて上洛してくる。この戦いに義澄は敗れ、将軍職を廃されて近江(現在の滋賀県)の六角高頼を頼って朽木谷に逃れた。
その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・三好長秀親子を京都に侵攻させるなどしたが、そのたびに義興や細川高国らに敗れた。また、義稙の暗殺計画を謀ったりもしたが失敗している。このため、永正7年(1510年)には義稙の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後の大友親治や播磨の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
しかし永正8年(1511年)8月14日、義稙との決戦(船岡山の戦い)直前に近江国の岡山城(滋賀県近江八幡市)で病死した。享年32。
肖像は京都市北区の等持院(木像)。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1493年(明応2年)4月28日、従五位下に叙す。時に、義遐を名乗る(6月に義高と改名)。
- 1494年(明応3年)11月24日、正五位下に叙し、左馬頭に任官。12月27日、征夷大将軍宣下。
- 1502年(文亀2年)7月12日、従四位下に昇叙し、参議に補任。左近衛中将を兼任。7月21日、名を義澄と改める。
- 1503年(文亀3年)1月14日、従三位に昇叙。参議及び左近衛中将如元。
- 1508年(永正5年)4月16日、征夷大将軍参議左近衛中将等辞職。
- 1511年(永正8年)8月14日、薨去
- 1521年(永正18年)8月12日、贈従一位左大臣
- 1533年(天文2年)9月12日、追贈太政大臣
| 室町幕府将軍 |
|---|
| 尊氏 | 義詮 | 義満 | 義持 | 義量 | 義教 | 義勝 | 義政 | 義尚 | 義材 | 義澄 | 義稙(義材再任) | 義晴 | 義輝 | 義栄 | 義昭 足利氏 - 将軍家 |

