越中国

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越中国の位置

越中国えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、北陸道に位置する。現在の富山県にあたるが、初期の範囲はこれと異なった。延喜式での格は上国、中国。

目次

[編集] 沿革

7世紀末の越国こしのくに)の分割によって成立した。初見は大宝2年(702年)三月甲申条(17日)に於てである(続日本書紀)。成立時の範囲は、現在の富山県全域と、新潟県の西部にあたる。

大宝2年(702年)3月に、頚城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡を越後国に譲った。これによって、現在の富山県と同じ範囲(射水郡、礪波郡、婦負郡、新川郡の4郡)になった。

天平13年(741年12月10日能登国を合わせたが、天平宝字元年(757年)に元に復した。

江戸時代初期には布市藩があり、後に富山藩加賀藩支藩)が置かれたが、国内の大半は加賀藩領であった。

[編集] 国府・国分寺・一宮など

国府は現在の高岡市伏木古国府(旧射水郡)にあった。現在の勝興寺の附近が国府跡とされており、近くの気象観測所の敷地内からは国司館の跡が発掘されている。平安時代末に一時礪波郡に移されたことがあった。

国分寺は現在の高岡市伏木一宮にあり、気多神社の近くの「国分寺跡」に薬師堂が建立されている。

延喜式神名帳に記載される神社は大社1社1座・小社32社33座の計33社34座である。大社は当初は射水神社(江戸時代までは高岡市二上にあった)で名神大社とされており、一宮も射水神社とされていたが、延喜式の後の版では射水神社は小社とされ、名神大社・一宮は気多神社(高岡市伏木一宮)とされている。これについては、白山比咩神社の社伝『白山記』によれば、越中国の一宮は当初は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社(二上)を越中国一宮とした。しかし、気多大社から分祀して国府の近くに新たに創建された気多神社(新気多)が力をつけ、二上と新気多とが一宮を争った結果、新気多が勝ち、気多神社が一宮・名神大社とされたという。ただし、気多神社は新しく作られた神社ということで、名神大社でありながら射水郡の一番最後に書かれている。

後に気多神社の社勢が衰え、また、平安時代末の一時、国府が礪波郡に移された関係から、礪波郡の高瀬神社南砺市高瀬)が一宮を名乗るようになった。一宮について各国一社のみを記す書籍では、越中国の一宮は高瀬神社と記しているものが多いが、だからと言って高瀬神社のみが一宮であるということでもない。江戸時代に全国の一宮を巡拝した橘三喜は、「越中の一宮は礪波郡にあるらしいが、それらしき社は見えず」とし、射水と気多にのみ参って高瀬には参っていない。

中世に書かれた『神道集』では、越中一宮は立山権現(雄山神社立山町))であると記されている。これは中世以降の立山信仰の普及に伴い、その中心地である立山権現が一宮とみなされたものとみられる。

現在では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされるが、射水神社・雄山神社は一宮の称を積極的には使用していない。

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

  • ?~1191年 - 比企朝宗?
  • 1221年~1245年 - 名越朝時
  • 1263年~1284年? - 名越公時
  • ?~1333年 - 名越時有

[編集] 室町幕府

  • 1336年~1337年 - 吉見頼隆
  • 1337年~1344年 - 井上俊清
  • 1344年~1351年 - 桃井直常
  • 1351年~1356年 - 井上俊清?
  • 1360年~1361年 - 細川頼和
  • 1361年~1362年 - 斯波高経
  • 1363年~1366年 - 斯波義将
  • 1367年~1368年 - 桃井直信
  • 1368年~1379年 - 斯波義将
  • 1380年~1406年 - 畠山満国
  • 1406年~? - 畠山満則
  • 1408年~1433年 - 畠山満家
  • 1433年~1455年 - 畠山持国
  • 1458年~1459年 - 畠山義就
  • 1460年~1493年 - 畠山政長
  • 1493年~1522年 - 畠山尚順

[編集] 国司

[編集] 越中守

[編集] 越中介

  • 内蔵縄麻呂

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