赤狩り

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赤狩り(あかがり、Red Scare)は、政府が国内の共産党員およびそのシンパ(sympathyser―同調者)を、公職を代表とする職などから追放し、社会的地位を貶めること。主に、第二次世界大戦後の冷戦下にある1948年頃から1950年代前半にかけてアメリカの影響が強い西側諸国で行われた。この場合の「」は共産党およびその支持者を指す。

なお、占領下の日本でにおいてマッカーサーの指令で行われたそれは、レッドパージの項を参照。

目次

[編集] マッカーシズム

[編集] マッカーシーと非米活動委員会

ジョセフ・マッカーシー

マッカーシズム」は、第二次世界大戦後の1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動きを指す。1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。

マッカーシーらに「共産主義者」や「ソ連スパイ」、もしくは「その同調者」だと糾弾されたのは、アメリカ政府関係者やアメリカ陸軍関係者だけでなく、ハリウッド芸能関係者や映画監督、作家。さらにはアメリカの影響が強い同盟国であるカナダ人やイギリス人、日本人などの外国人にまで及び、「赤狩り」の影響は西側諸国全体に行き渡ることになる。

しかし、「共産主義者」の追放という大義名分を傘に着たマッカーシー議員や、その右腕となった若手検察官ロイ・コーンなどによる、偽の「共産主義者リスト」の提出に代表される様な様々な偽証や事実の歪曲や、容疑者に対する自白や協力者の告発、密告の強要までを取り入れた強引な手法が、マスコミや野党である民主党から大きな反感を買うことになる。

[編集] 終焉

エドワード・R・マロー

当初はマッカーシーの強硬な姿勢が国民から大きな支持を受けたものの、マスコミをはじめ政府、軍部内にマッカーシーに対する批判が広がる中、1954年3月9日には、ジャーナリストエドワード・R・マローにより、マローがホストを勤めるCBSドキュメンタリー番組「See it Now」の特別番組内で、違法な手法で「赤狩り」を進めるマッカーシーに対する批判キャンペーンを行ったことを皮切りに、国民の間にも広くマッカーシーに対する批判が広がる。

その様な中で政府、軍部内にもマッカーシーに対する批判が広がり、同年の12月2日に、上院は65対22でマッカーシーに対して「上院に不名誉と不評判をもたらすよう指揮した」として事実上の不信任を突きつけ、ここに「マッカーシズム=アメリカにおける赤狩り」は終焉を迎えることになる。

[編集] 影響

「マッカーシズム」が吹き荒れた中で、「自らが標的となること」に対する恐怖によって、アメリカ国内におけるマスコミの報道や表現の自由に「自主規制」がかかったことや、同じ理由からマッカーシー一派に対する告発や密告が相次いだことなどから、容疑者や告発者のみならず多くの人々に対して大きなダメージを与えた。また、最終的に自浄作用によって終焉を迎えたものの、第二次世界大戦前後を通じてアメリカが掲げた「自由民主主義国」という根拠のない自賛に対して、国内外から多くの疑問が呈される結果となった。

しかしながら、マッカーシーによって「共産主義者」や「ソ連のスパイ」と指摘されたものの中には、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の特別顧問であったロークリン・カーリーや、カナダの外交官であるエドガートン・ハーバート・ノーマン 、アニー・リー・モスなど、冷戦後に公開された機密文書などによって、実際に「ソ連のスパイ」や「共産主義者」であったことが証明された者もいた。

[編集] 告発・密告者

ロイ・コーン

[編集] 容疑者

[編集] レッドパージ

レッドパージ(Red purge)は、第二次世界大戦後の1950年当時、アメリカ軍を中心とした連合国軍占領下の日本においてマッカーサーGHQ総司令官の指令により、共産党員とシンパ(同調者)が公職企業から次々に追放された動き。1万を越える人々がを失ったと言われる。なお、アメリカ本国での共産主義者追放を指す場合には「レッド・パージ」とは言わない。

[編集] 考えられる原因

[編集] 赤狩りを取り上げた作品

[編集] 関連項目

[編集] 人物

[編集] その他

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