貞暁
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貞暁(じょうぎょうまたはていぎょう、文治2年(1186年) - 寛喜3年2月22日(1231年3月27日) は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。源頼朝の庶子(三男)。母は伊達朝宗の娘・大進局。通称を鎌倉法印といった。
母の大進局は鎌倉幕府に出仕する侍女であったが、頼朝の寵愛を受け懐妊する。しかし頼朝正室の北条政子がこれに気づいたため、その怒りを畏れた頼朝によって遠ざけられ、家臣の長門景遠の宅にて男児を出産する。
この男児は出生の後も人目を憚るようにして育てられ、七歳になった時に出家、法名を「能寛」と名乗って仁和寺に入る。更に修業を重ねた後、法名を貞暁と改め、高野山に登ってより一層俗界から遠ざかった。これ以降、源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、世間と隔絶した中で一人修業に励み、人々の尊崇を集めたとされる。
その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行った。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置された阿弥陀如来座像の胎内に父頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である三代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行っている。
一説によると、実朝の死後その野心を政子に疑われ、四代将軍就任を打診されるも、片眼を抉り出してこれに応えたという。政子は貞暁のこの潔さに落涙し、以後二度と彼を疑うことがなかったと伝わる。
1231年、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)。これにより、頼朝の男系の子孫は断絶した(女系の子孫も、3年後の竹御所没により途絶えた)。なお、『尊卑分脈』は貞暁と能寛を別人としているが、これは誤りである。
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