豊臣秀吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

"羽柴秀吉" は この項目 "豊臣秀吉" へ転送されています。羽柴秀吉の名義で選挙出馬している人物については羽柴誠三秀吉をご覧ください。
豐臣秀吉凡例
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文6年2月6日1537年3月26日
天文5年1月1日1536年2月2日)とも
死没 慶長3年8月18日1598年9月18日
改名 日吉丸(幼名)→木下藤吉郎秀吉
→羽柴藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉
別名 猿、はげ鼠(仇名)
神号 豊国大明神
戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
官位 従五位下・左近衛少将→従四位下・参議
従三位・権大納言→正二位・内大臣
従一位・関白(内大臣兼任)→太政大臣(関白兼任)
→太政大臣(関白辞任)→贈正一位
主君 松下之綱織田信長織田秀信
氏族 本姓:平氏藤原氏豊臣氏
名字:木下氏羽柴氏
父母 父:弥右衛門、母:大政所、継父:竹阿弥
兄弟 日秀豊臣秀長朝日姫
正室:寧子(お禰とも)
側室:淀殿松の丸殿三の丸殿、加賀殿、南の局
月桂院
秀勝(石松丸)鶴松豊臣秀頼豊臣秀次
羽柴秀勝豊臣秀勝結城秀康小早川秀秋
宇喜多秀家八条宮智仁親王豪姫

豊臣 秀吉とよとみの ひでよし/とよとみ ひでよし)、天文6年2月6日1537年3月26日) - 慶長3年8月18日1598年9月18日))は、日本戦国時代から天正時代(安土桃山時代)にかけての武将戦国大名。「豊臣秀吉」の読み方についての議論に関しては「豊臣氏」を参照。

目次

[編集] 略歴

尾張国愛知郡中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、中国大返しによりへと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康らに託して没した。

墨俣の一夜城金ヶ崎の退き口高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に百姓と伝えられる弥右衛門、なかの間の子として生まれた。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある(注:後述の人物像を参照)。誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は2月6日である。また血液型は遺品等の体液等を調べた結果、O型である事が分かっている。

広く流布している説に父の木下弥右衛門は戦で死んでしまい母の大政所(本名はなか)は竹阿弥と再婚したが、秀吉は義父の竹阿弥と折り合いが悪くいつも虐待されており、家を出る事を決意し侍になるために駿河国に行ったとされるが、木下姓自体父から引き継いだものかも疑問視されており謎が多い。

ちなみに諱の一字『秀』は放浪時代に六角義秀から拝領したものとも言われる。のち六角一族の六角義郷が近江八幡城主に取り立てられ十二万石を領し、六角義賢の子義治が後継者秀頼の弓の師範になっていることからみて、この説はかなり真実に近いものと思われる。

[編集] 今川陪臣

はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕えた(ここで藤吉郎はある程度目をかけられたようだがまもなく退転した。之綱は後、徳川家康に仕えるも天正11年(1583年)、秀吉に丹波国と河内国内において1600石を与えられ、天正18年(1590年)に、1万6000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられた。)。

[編集] 信長の家臣時代

天文23年(1554年)あたりから織田信長に小者として仕える。清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果をあげた。これらの仕事ぶりによって信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。この頃、その風貌によって信長から「」「禿げ」と呼ばれていたらしい(注:後述の人物像を参照)。永禄7年(1564年)には浅野長勝の娘、ねねと結婚する。

美濃の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。このころ斉藤氏の影響下の美濃より竹中重治蜂須賀小六前野長康らを配下に組み入れている。

永禄11年(1568年)、信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任される。当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。

元亀元年(1570年)の越前朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、越前金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉はしんがりを願い出てこれをよく防いだ(金ヶ崎の退き口)。秀吉の奮戦で危機を脱した信長は、秀吉の働きに対し褒美として黄金30枚を与えた。この貢献で秀吉の勇名は一気に高まる事になる。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、(事実であるとすれば)尾張浅井の傍流で近江浅井の末流という血統を買われたかその旧領北近江三郡に封ぜられて、元々今浜という名だった地を「長浜」と改める。そして長浜城の城主となる。この頃に丹羽長秀柴田勝家から一字ずつをもらい受け、苗字の木下を羽柴に改めている(羽柴秀吉)。

近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成加藤清正福島正則などの有望な若者を積極的に登用した。

天正4年(1576年)に越後の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。その後勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒したが、やがて許されている。

その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨に進軍し、赤松則房別所長治小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。

天正7年(1579年)に備前美作の大名・宇喜多直家を服属させる。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城城主・別所長治を2年に渡る兵糧攻めの末、降した。同年、但馬山名堯熙が篭もる出石城も攻め落とした。

天正9年(1581年)には山名家臣団が、因幡山名豊国を追放した上で毛利方の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた。その後は中国西地方一体を支配する毛利輝元と戦った。同年、岩屋城を攻略して淡路を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元吉川元春小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。

このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。

[編集] 信長の死から清洲会議まで

天正10年(1582年)6月2日、主君の織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。このとき、備中国高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。

秀吉の思いもよらぬ撤退に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦ったが、信長旧臣の池田恒興丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀高山重友らまでもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は最終的に百姓に討ち取られて哀れな最期を遂げた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。

6月27日、尾張清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。

信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃織田信包が北伊勢伊賀、光秀の寄騎であった細川藤孝丹後筒井順慶大和、高山重友と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江の志賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波山城河内を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家を勝るようになったのである。

[編集] 柴田勝家との対立

秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためであるが、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けている。

12月、越前の柴田勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、12月9日に池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。もともと勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷細川忠興山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにも関わらず、優勢であった。

2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。

4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに柴田方であったはずの前田利家らの裏切りもあって、柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(賤ヶ岳の戦い)。

4月24日、勝家は正室のお市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀能登も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男である織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。

[編集] 徳川家康との対立

小牧・長久手の戦いも参照のこと)

天正12年(1584年)、信長の後継者を自称する信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時岡田重孝津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。しかし家康の堅陣を見て、秀吉は長期対峙するしかなかった。何度も挑発行為を行なったが、家康には通じなかった(小牧の戦い)。

大軍であればあるほど、兵糧補給が難しかった。また前の敗戦で面目躍如に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。

こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で対峙することを余儀なくされた。しかしその間に秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、織田信雄・徳川家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男の於義丸を「羽柴秀康(のちの結城秀康)」と名乗らせ、秀吉へ人質として差し出し講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。

その後秀吉は天正14年(1586年)には妹の朝日姫を家康の正室として、さらに母の大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

[編集] 豊臣政権と紀伊・四国・越中征伐

天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。豊後の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役真田信繁は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強し、徳川勢を大いに苦しめた)。

天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説<ref>堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642008136</ref>がある。

天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した。

また、四国の長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は土佐のみを安堵されることで許された(四国征伐)。

7月11日には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って、12月25日、太政大臣に就任し(※)、政権を確立した(豊臣政権) 。秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある(※…『公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』に後陽成天皇即位式当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている(橋本政宣『近世公家社会の研究』))。

越中の佐々成政に対しても8月から征伐を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。

[編集] 九州征伐

そのころ九州では島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られ、九州に攻め入る事になる。

天正14年(1586年)には豊後国戸次川において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、信親親子・十河存保大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。

だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟の秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久義弘らを降伏させる(九州征伐)。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。

天正15年(1587年)、宣教師ガスパール・コエリョの行い(神社仏閣の破壊など)に憤慨し伴天連(バテレン)追放令を出す。天正16年(1588年刀狩令を出し大規模に推進した。

[編集] 小田原征伐

天正17年(1589年)に後北条氏の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

東北諸大名にも、臣下としての小田原参陣を要求。しかし東北の大半を制していた伊達政宗は、派兵を渋り姿を見せなかった為に、秀吉は激怒する。その様子を知った政宗が、あわてて死装束をまとい秀吉の元に赴き謝罪した為、秀吉は遅延を許した。この時秀吉は平伏する政宗の首を扇子で軽く叩き、「もう少し来るのが遅ければここが危なかった」とつぶやいたとも言われている。

小田原城は、上杉謙信武田信玄でも落とせなかった堅城だが、天下をほぼ手中に治めた秀吉の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政氏直父子は降伏。氏政・氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原征伐)。

[編集] 天下統一

最後の大敵、後北条氏を下し、ついに天下を統一する。秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。

天正19年(1591年)には関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。

また、秀吉に仕えていた茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子の古田織部細川忠興らの助命嘆願も空しく、利休は切腹して果て、首が一条戻橋で晒された。この事件が起きた理由については諸説がある。

この年、東北の南部氏一族、九戸政実が後継者争いのもつれから反乱を起こす。秀吉は南部信直の救援依頼に対し、豊臣秀次を総大将とした蒲生氏郷・浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍を派遣。東北諸大名もこれに加わり、6万の大軍となった。九戸政実実親兄弟は抗戦するが、多勢に無勢の為やがて降伏。その後九戸氏は豊臣秀次に一族もろとも斬首されて滅亡。乱は終結した。

[編集] 文禄・慶長の役から晩年

文禄元年(1592年)16万人の軍で朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗やから援軍が送られてきたことで、戦況は膠着化。文禄2年(1593年)より休戦期に入った。

文禄2年(1593年)には側室の淀殿との間に、秀頼が産まれる。その二年後の文禄4年(1595年)に、「『殺生関白』(摂政関白のもじり)と周りから呼ばれるほどの過ぎた乱行」を理由に、秀吉の甥で関白の豊臣秀次に切腹を命じた。秀次の補佐役であり、秀吉を長く支えてきた古参前野長康らも連座して切腹処分となった。秀次の妻や子などもこの時処刑されている。実際に秀次にこのような乱行行為があったのかどうかには諸説がある。一説には「実子の秀頼が生まれたので、秀次が邪魔な存在になった」という見方もある。

文禄5年(1596年)、秀吉は日本に派遣されて来た明使節を追い返したことで文禄の役の講和交渉は決裂。慶長2年(1597年)14万人の軍で朝鮮へ再度出兵した(慶長の役)。

秀吉は慶長3年(1598年)8月18日に五大老筆頭の徳川家康秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城胃がんのため没した(死因については諸説あり)。享年61。

秀吉の死を契機に五大老より撤退が命じられて慶長の役は終了した。7年に渡るこの戦争で朝鮮は軍民と国土は大きな被害を受けて荒廃し、援軍を送った明帝国も莫大な戦費と兵員を失って明清王朝交代の一因を作った。また日本側でも動員された西国大名が加封を受けられず疲弊した。 李氏朝鮮との正式な外交関係は朝鮮通信使が慶長12年(1607年)に江戸幕府に派遣されるまで回復しなかった。


秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。


[編集] 評価

[編集] 政策

  • 秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。太閤検地刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。
  • 秀吉は当初はキリシタンに好意的であったが、宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害、宣教師たちの牛馬の肉食、ポルトガル人による奴隷売買を理由に、天正15年(1587年)、伴天連(バテレン)追放令を出し、キリスト教を禁止した。秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた可能性がある(事実、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、支那征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言しており、また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、通商と布教、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している)。
  • また、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役の動機については諸説あるものの、最近の研究では、スペインやポルトガルの支那征服への対抗策であったという説がある(この説の裏づけとして、文禄3年(1593年)、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と手紙で恫喝している)。文禄・慶長の役の失敗は、豊臣家の家臣が徳川家に味方する者が相次ぐことになったことの遠因とも言われており、豊臣政権が短命に終わる原因の一つになったともいえる。
  • 人事においては、石田三成や大谷吉継らは文治・吏僚派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。秀吉としてはそれらに見合った仕事を与えることで両派を形成したのだと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにもつながった。
  • 織田信長が重臣の林通勝佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治加藤光泰尾藤知宣らを追放し、さらに軍師であった黒田孝高も冷遇して中枢から排除している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放はかえって譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退につながったと言っても過言ではない。
  • 晩年に蒲生秀行小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)につかせる一因を成している事や朝鮮半島を奇襲するなど、晩年における愚行が目立つ。

[編集] 人物

  • 本能寺の変から中国大返し、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いに至るまでの軍事政治手腕は、神懸り的ともいうべき能力を発揮している。信長の死後一年足らずで、信長勢力での席次が3~4番手の軍団長が主席となり、以後、日本有数の実力者にまで当極している。しかし次第に平衡感覚を失い、それを補うべき秀吉の一族の多くも不幸になった(母の大政所と妹の朝日姫は家康の人質となり、実弟で有能な補佐役であった秀長は早くに亡くなり(一般には寿命とみなされる)、甥の秀次と一族を処刑するように命じた)。
  • 晩年の秀吉は信長時代のような切れ味がなくなり、独裁による弊害が目立つ。このため、豊臣氏は結果的に家康に滅ぼされたとはいえ、その遠因を作り出したのは、秀吉自身と見なされる論が多いのである(特に豊臣秀次一族粛清と文禄・慶長の役は、多くの史家から秀吉最大の愚行とまで言われている)。
  • なお明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあった)。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。
  • このように秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。
  • 秀吉の父の弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。平時も農業の経営に主としては参加せず、合戦には傭兵的に参加する階層だったのだろうか。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が始めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。
  • 生涯において子宝に恵まれにくかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は、2人の養子を秀勝と名付けている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したと近江坂田郡誌に記載されている。秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にズレがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。
  • 猿と呼ばれたとされる説も有名ではあるが、現在では多分に、絵として残っている秀吉の容姿から「猿」を連想し、「猿」という呼び名は見た目から来たと一般では通っていると思われる。一方で、実際に秀吉が猿と呼ばれたのは実は関白就任後に落書などの中で、「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味での皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものという説もあり、まして信長がそう呼んではいないとする主張する者もいる。一方、「禿げ鼠」の呼び名も信長からねねへの書状の中で一度触れられたのみで、常用されていたわけではないと言われている。
  • また、彼は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスや前田利家が記した記録に残されている。後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時(現在もそうだが)、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉はいくら周囲から奇異な目で見られても6本指を生涯通し、天下人になる前はその事を強いて隠しはしなかったという。しかし、天下人となった後は記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す形で描かせたりした。その為に「秀吉6本指」説は長く邪説扱いされていた。現在は前田利家の証言の記録から事実と断定できるが、未だにこの事に触れない秀吉の伝記は多く、近年発表された小説でさえこの事実を奇説扱いするなど、まだまだ一般には認知されていない。戦国時代を題材にした漫画では、センゴクシグルイがこの説を取り入れており、この作品に登場する秀吉は六本指である。
  • また、死因にも様々な説が唱えられており、有名な説では、脳梅毒によって死亡したとされている。
  • 晩年は老耄だったようで、人前で小便を漏らすこともあったとされる。
  • 身長は不明。150センチ以下から160センチ余まで諸説あり。
  • かなりの好色家で、10歳の女子を側室として迎えたり、性欲はかなり強かったという。ただし子供に恵まれなかった事や、精力剤を頻繁に求めていた事からも、精力絶倫では無かったと思われる。当時の世でも幼い女児に性欲を沸かせた武将は珍しい。
  • 戦国大名は主君と臣下の男色を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森蘭丸、上杉謙信と直江兼続などである)。しかし秀吉には男色がまったくと言って良いほどなかった。男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。
  • 意外なことにに優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。
   === 人物 ===
  • 本能寺の変から中国大返し、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いに至るまでの軍事政治手腕は、神懸り的ともいうべき能力を発揮している。信長の死後一年足らずで、信長勢力での席次が3~4番手の軍団長が主席となり、以後、日本有数の実力者にまで当極している。しかし次第に平衡感覚を失い、それを補うべき秀吉の一族の多くも不幸になった(母の大政所と妹の朝日姫は家康の人質となり、実弟で有能な補佐役であった秀長は早くに亡くなり(一般には寿命とみなされる)、甥の秀次と一族を処刑するように命じた)。
  • 晩年の秀吉は信長時代のような切れ味がなくなり、独裁による弊害が目立つ。このため、豊臣氏は結果的に家康に滅ぼされたとはいえ、その遠因を作り出したのは、秀吉自身と見なされる論が多いのである(特に豊臣秀次一族粛清と文禄・慶長の役は、多くの史家から秀吉最大の愚行とまで言われている)。
  • なお明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあった)。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。
  • このように秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。
  • 秀吉の父の弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。平時も農業の経営に主としては参加せず、合戦には傭兵的に参加する階層だったのだろうか。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が始めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。
  • 生涯において子宝に恵まれにくかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は、2人の養子を秀勝と名付けている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したと近江坂田郡誌に記載されている。秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にズレがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。
  • 猿と呼ばれたとされる説も有名ではあるが、現在では多分に、絵として残っている秀吉の容姿から「猿」を連想し、「猿」という呼び名は見た目から来たと一般では通っていると思われる。一方で、実際に秀吉が猿と呼ばれたのは実は関白就任後に落書などの中で、「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味での皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものという説もあり、まして信長がそう呼んではいないとする主張する者もいる。一方、「禿げ鼠」の呼び名も信長からねねへの書状の中で一度触れられたのみで、常用されていたわけではないと言われている。
  • また、彼は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスや前田利家が記した記録に残されている。後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時(現在もそうだが)、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉はいくら周囲から奇異な目で見られても6本指を生涯通し、天下人になる前はその事を強いて隠しはしなかったという。しかし、天下人となった後は記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す形で描かせたりした。その為に「秀吉6本指」説は長く邪説扱いされていた。現在は前田利家の証言の記録から事実と断定できるが、未だにこの事に触れない秀吉の伝記は多く、近年発表された小説でさえこの事実を奇説扱いするなど、まだまだ一般には認知されていない。戦国時代を題材にした漫画では、センゴクシグルイがこの説を取り入れており、この作品に登場する秀吉は六本指である。
  • また、死因にも様々な説が唱えられており、有名な説では、脳梅毒によって死亡したとされている。
  • 晩年は老耄だったようで、人前で小便を漏らすこともあったとされる。
  • 身長は150センチ以下だったというのが妥当である。
  • かなりの好色家で、10歳の女子を側室として迎えたりするなど、肉欲はとどまることを知らなかったという。ルイス・フロイスは秀吉の事を、「極度に淫蕩で、獣欲に耽溺していた」と述べている。ただし子供に恵まれなかった事や、精力剤を頻繁に求めていた事からも、精力絶倫では無かったと思われる。当時の世でも幼い女児に性欲を沸かせた武将は珍しい。
  • 戦国大名は主君と臣下の男色を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森蘭丸、上杉謙信と直江兼続などである)。しかし秀吉には男色がまったくと言って良いほどなかった。男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。
  • 意外なことにに優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。

[編集] 本能寺の変の黒幕説

秀吉が信長を暗殺した本能寺の変の黒幕ではないかとされる説が、近年浮上している。その説の根拠は秀吉の必要ない信長に対する援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。当時、東の脅威であった武田勝頼を滅ぼしていた信長は、毛利氏を滅ぼす機会と捉えてこれを承諾し、援軍として明智光秀を派遣することを命じた。

ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争で財政的に破綻寸前にあった上、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に出向いた兵力は1万5000人ほどでしかなく、3万を数える羽柴軍の半分ほどでしかなかった。このため、秀吉は単独でも毛利軍と戦うことは可能だったのである。さらに秀吉は、信長に援軍要請を行なった頃から、毛利方と密かに和睦交渉を行なっていた節がある。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀は俗説では近衛前久と通じて信長暗殺計画を謀っていたとされているが、本能寺に滞留している信長を討つ場合、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。何の理由も無く軍勢を集めれば、たちまち信長に謀反と見なされて逆に討伐される可能性があった。ところが、秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。

光秀が近衛前久と内通していたように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと思われる。ちなみに光秀の死後、近衛前久は秀吉から光秀との結託を疑われたが、なぜか晴豊は疑われていない(ちなみに晴豊は、光秀が信長を殺した後に光秀への使者を務めた吉田兼和とも懇意にあった)。さらに、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ疑問が残るところも多い。この研究も待たれるところである。

[編集] 墓所・霊廟・神社

死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社(京都)に祀られたが、三代将軍家光の時代幕府により廃された。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。高野山奥の院にも墓所がある。

戒名「国泰裕松院殿霊山俊龍大居士」

主祭神に秀吉が祀られている神社として、京都市以外には豐國神社(大阪市)、豊国神社(長浜市)、豊国神社(名古屋市)がある。大阪市と長浜市はかつて秀吉が統治した町に、名古屋市は秀吉の生地に由来する。

[編集] 系譜

[編集] 秀吉の親族

[編集] 秀吉の養子

[編集] 家臣

譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。

織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政堀尾吉晴山内一豊中村一氏竹中重治樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成黒田孝高増田長盛などがおり、福島正則加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。

賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元らが七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。

信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、これらは友人としての関係を保ったとも考えられている。

晩年には豊臣政権の職制として五大老三中老五奉行を設けるが、死後に譜代の家臣は関ヶ原の戦いで武断派と文治派に分かれ戦った。

五大老
徳川家康(筆頭)、前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景上杉景勝(隆景死後)
三中老
生駒親正中村一氏堀尾吉晴
五奉行
浅野長政(筆頭)、石田三成増田長盛長束正家前田玄以
賤ヶ岳の七本槍
福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元
信長旧臣
前田利家丹羽長秀蜂須賀正勝堀秀政
黄母衣衆
青木一重、伊木遠勝、石尾治一、伊東長実、井上道勝、井上頼次、猪子一時織田信高小野木公郷、郡宗保、仙石秀久、津川親行、津田信任戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村吉安、長谷川重成、蜂須賀家政服部一忠速水守久尾藤知宣舞兵庫前野忠康)、神子田正治、箕浦勘右衛門、三好房一毛利吉成、森可政、山内一豊分部光嘉
参謀
竹中重治黒田孝高
その他子飼い
小西行長大谷吉継

[編集] 脚注

<references/>

[編集] 関連項目

[編集] 関連フィクション