豊臣氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊臣氏(とよとみうじ/とよとみし、豐臣氏)とは、豊臣の姓を下賜された氏族である。
豊臣姓は、天正時代(安土桃山時代)に関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた姓。
公卿の姓である源平藤橘(げんぺいとうきつ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏の総称)や菅原氏・賀茂氏・中原氏・大江氏などに匹敵する新姓として、朝廷から秀吉へ豊臣朝臣という氏姓(本姓)が下賜された1586年に始まる。なお、「豊臣(とよとみ)」という姓は聖徳太子の名前「豊聡耳(とよとみみ)」から取られたという説がある。
豊臣氏の「豊臣」は本姓であって、「織田」(本姓は平朝臣)や「徳川」(本姓は源朝臣)などといった名字とは性質が異なる。本姓による名乗りは、姓と諱の間に氏への所属を意味する「の」を入れて読むのが原則なので(例えば「平清盛」を「たいら・の・きよもり」、「源頼朝」を「みなもと・の・よりとも」と読むはそのため)、この原則に従うと「豊臣秀吉」は「とよとみ・の・ひでよし」と読むことになる。しかし、本姓による名乗りの場合でも、卜部兼好(吉田兼好)の場合は「の」を入れないで読まれ(※入れて読まれることもある)、名字による名乗りの場合でも、渡辺綱の場合は「の」を入れて読まれる例もあることから、「豊臣秀吉」などの場合にこの原則が当てはまるのかは分かっていない。
秀吉および羽柴家の人物の名字は豊臣姓の下賜以降も「羽柴」のままであったと見られているが、豊臣姓を下賜されてからは秀吉たち自身の名乗りとして「羽柴」を使う必要がなくなったらしく、使用された形跡は無い。
凡下平民の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名たちに豊臣朝臣の氏姓や羽柴の名字を与え、「羽柴何豊臣朝臣某」と名乗らせ一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治しようとした。この点で豊臣政権は、徳川や松平の名乗りがごく一握りの大名にしか許されなかった江戸幕府と好対照である。
のちに徳川家の覇権が確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を与えられて羽柴氏を名乗ることを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の本姓を捨てて羽柴を公称しないようになっていった。江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、秀吉の正室・高台院の実家である木下氏だけである。木下氏は明治維新後に本姓と名字が法的に一本化され、現在見られる姓のあり方に統合されていくまで、本姓を変えることはなかった。
なお「大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡した」といわれることが多いが、これは一般に「豊臣家」といえば大坂城主の羽柴家のみを指すために起こる誤解である。前述のように外戚の豊臣氏族である木下家がその後も存続しているので、氏族としての豊臣氏は断絶していない。断絶したのはあくまで豊臣秀頼の家だけである。
また、高台院自身も晩年に養子をとり、羽柴利次と名乗らせた。高台院没後は羽柴を称することが禁じられたため、木下利次と改め遺領を継承した。
[編集] 氏族としての豊臣氏の歴史
氏族としての豊臣氏はすなわち、秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。すなわち、以下の人々である。
[編集] 系図
太線は実子 細線は養子
竹阿弥━━━大政所━━━ 木下弥右衛門 ┣━━━┓ ┣━━━━━┓ 豊臣秀長 朝日姫 高台院━━━豊臣秀吉 日秀━━━三好吉房 │ ┏━━━╋───┬───┐ ┣━━━━┳━━━━━━┓ 秀保 秀勝実子 秀頼 秀勝信長秀勝日秀 豊臣秀次 豊臣秀勝日秀 豊臣秀保 ┣━━━┓ 国松 奈阿姫
秀吉は以上の乏しい親族を取り立て、弟秀長を大和国郡山城主100万石、甥秀次を近江国八幡城主43万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、実子鶴松を後継者と定めていたが、1590年に天下統一を果たした直後の1591年から1595年の間に秀長、鶴松、秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。
落胆した秀吉は甥秀次を後継者と定め、1591年に関白職を譲る。しかし、秀吉は全権を譲らず、太閤(※本来、太閤とは子弟に関白を譲った人物を指す)と呼ばれつつ豊臣宗家直轄領と軍権を掌握しつづけたので、次第に二重政権の矛盾が表面化してきた。しかも1593年に秀吉に再び実子秀頼が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。1595年、秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹させる。これによって二重政権は解消され、豊臣政権は再び秀吉のもとに一元化されるが、政権の正統性の拠り所である関白職は豊臣宗家から永遠に失われてしまった。
1598年に秀吉が死ぬと、後事を託された有力大名の中から徳川家康が台頭し、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら豊臣政権擁護派の諸大名を倒し、覇権を打ちたてる。1603年に家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、1605年には将軍職を子の徳川秀忠に譲って徳川政権の正統性を確立していき、豊臣宗家は政権の座から完全に滑り落ちてしまった。
しかし、徳川政権の確立していく様を見ても、豊臣秀頼はとうとう一大名として徳川将軍に臣従することを認めなかった。これに後顧の憂いを感じた家康は、1614年に大坂冬の陣を起こし、さらに翌年の大坂夏の陣で大坂城を落とし、秀頼らを自害させる。秀頼の遺児・国松は、同じ慶長20年5月23日(グレゴリオ暦1615年6月19日)に京の三条河原にて処刑され、ここに秀吉の興した豊臣宗家は滅亡した。
なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖・木下延次になったという異説がある。その子孫は現在、先祖の豊臣姓を苗字に名乗っているという。しかし、幕府に認められた正式な豊臣家の継承者は、高台院が晩年にむかえた養子の羽柴豊臣利次とされている、実父は小早川秀秋の兄木下利房。
[編集] 外部リンク

