護佐丸

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護佐丸(ごさまる、????年~1458年)は、15世紀琉球王国の政治家。恩納村出身。唐名は毛国鼎(もうこくてい)、名乗は盛春(せいしゅん)、称号は按司

目次

[編集] 略年譜

[編集] 生涯

山田城主の子として生まれた。生年不明 1416年、尚巴志(しょうはし)に従い北山討伐に従軍し、今帰仁城を攻め落とす。同城に監守として配置された。 1422年、山田城の南西約4kmに座喜味城を築城し、そこに移る。 この築城には、奄美諸島から労働者を駆り出したと言われており、護佐丸の勢力が奄美諸島にまで及んでいたことがわかる。 1440年対外貿易で力をつけていた阿麻和利に睨みをきかせる為、王府の命により、中城城(なかぐすくじょう)に移り、城を改築、軍備を増強する。 この軍備増強に阿麻和利は眼をつけ、王府に護佐丸に謀反の動きありと告げた。1458年、尚泰久は護佐丸討伐のため阿麻和利を総大将に任命し、中城城を攻め落とす。沖縄の民話では、このとき「護佐丸は城を包囲しているのが王府軍と聞くと一切反撃せずに妻子とともに自害した。 また、一番幼かった盛親を乳母に託し城外に脱出させた。盛親は、長らく人目を忍んで暮らす日が長かった」と話されている。 阿麻和利は護佐丸を排除した後、首里王府を攻めようとするが妻の百度踏揚(ももとふみあがり)が首里に逃亡、陰謀は発覚し阿麻和利は王府によって討たれる。ちなみにこの百度踏揚の父は護佐丸だという説がある。

[編集] 近年の評価

  • 政情が不安定だった王府にとって阿麻和利同様、護佐丸も脅威だったのではないか
  • 脱出した盛親が人目を忍んで暮らしていたといわれるが忠臣護佐丸の子としては不自然である。
  • 尚泰久の没後、王の子の金橋、多武喜は首里を追放されている。彼らの父方の祖父は護佐丸である。

これらのことから、

1.実は護佐丸も謀反者だったのではないかという説

2.「阿麻和利・護佐丸の乱」の元の文献である『中山世譜』や『球陽』は首里王府や護佐丸の子孫により、
書かれたものなので阿麻和利を悪者に仕立て上げたのではないかという説

などの仮説が出ている。[要出典]

[編集] 子孫

護佐丸の遺児、盛親は尚円に登用され豊見城按司となっている。また、護佐丸の末裔は近世三司官の役職に就く者を出ており、 子孫を名乗る人々も繁栄している様だ。


[編集] 参考

  • 『中山世譜』(1701年)
  • 『毛氏先祖由来伝』


[編集] 関連項目

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