読売ジャイアンツ

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読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants,読売巨人軍)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。また、その運営会社の事。商号は株式会社読売巨人軍。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。

本拠地以外の主催試合に関しては、読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧を参照。本拠地以外の主催試合(オープン戦)に関しては、読売ジャイアンツ主催のオープン戦使用球場一覧を参照。

<tr><th>フランチャイズの遍歴</th><td>東京都1952年~)</td></tr> <tr><th>タイトル</th><td>リーグ戦:39回
日本シリーズ:20回</td></tr> <tr><th>優勝年度</th><td>(リーグ戦)
1936秋、1937春、1938、1939、1940、
1941、1942、1943、1949、1951、
1952、1953、1955、1956、1957、
1958、1959、1961、1963、1965、
1966、1967、1968、1969、1970、
1971、1972、1973、1976、1977、
1981、1983、1987、1989、1990、
1994、1996、2000、2002
(日本シリーズ)
1951、1952、1953、1955、1961、
1963、1965、1966、1967、1968、
1969、1970、1971、1972、1973、
1981、1989、1994、2000、2002</td></tr>
読売ジャイアンツ
チーム名 読売ジャイアンツ
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍)
創設年度 1934年
チーム名の遍歴 大日本東京野球倶楽部(1934年
→東京巨人軍(1935年1946年
→読売ジャイアンツ(1947年~)
本拠地 1軍:東京ドーム 2軍:読売ジャイアンツ球場
収容人員 45,600人(東京ドーム)
オーナー 滝鼻卓雄
親会社 読売新聞グループ本社
監督 原辰徳
東京ドーム(1988年より本拠地)

目次

[編集] 「巨人」について

戦前からの長きに渡り、「ジャイアンツ」を日本語に意訳(Giants = 巨人+複数形を軍)した愛称「巨人軍」が用いられてきている。現在も、球団の運営会社は「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に「巨人軍」を用いている。野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。

読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「きょ」に置かれる。

現在、本球団主催公式戦が行われる本拠地である東京ドームでは、すべての入場券に「巨人-○○」と記載されている。一方、場内アナウンスでは「巨人」と称さず、「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします。」などと称されている。

読売グループのみならずすべてのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、ドラフト会議においては「読売」と称されている。

したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。

ちなみに巨人軍という軍隊は、18世紀初期にプロイセン王国に存在した。

[編集] 球団の歴史

なお、この項では監督が指揮した体制のことを俗称である「政権」、特定の監督の政権を「○○政権」(○○は監督の名字が入る)、複数回監督を務めた場合は最初の政権を「第一次」、二度目の政権を「第二次」と称することとする。

[編集] ジャイアンツ誕生

1934年11月2日アメリカメジャーリーグベースボール選抜軍が来日し、全日本軍と親善試合を行い大盛況を博す。アメリカのプロフェッショナル野球を目の当たりにした市岡忠男・浅沼誉夫・三宅大輔・鈴木惣太郎の4人が、メジャー選抜軍を招待した読売新聞社正力松太郎社長にプロ野球球団結成を働きかけ、同年12月26日大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が誕生。全日本軍のスター選手を中心に結成された。

[編集] 戦前期

1935年2月14日、第1次アメリカ遠征に出発。チーム名を「東京ジャイアンツ」として米国内を転戦した。帰国後、1936年東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称。同年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。この年より日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人はアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は勝ち点で大阪タイガースと同点になり洲崎球場で優勝決定戦が開催、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし第1次黄金時代を築いた。なお、1937年1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝も通算のリーグ優勝の回数にカウントされている。

[編集] 戦後期

1946年のリーグ戦再開より再び参加。1947年読売新聞社が正式に経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称。ニックネームを導入し、読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭に苦戦を強いられるが、監督・三原修の復帰や「赤バット」の川上哲治千葉茂青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰。また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得。1リーグ最後の1949年に優勝を奪還。

[編集] セ・リーグ結成

1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・大阪タイガース中日ドラゴンズ松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス南海ホークス東急フライヤーズ大映スターズ毎日オリオンズ西鉄クリッパース近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

[編集] 水原監督政権

1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは、この年獲得した与那嶺要の活躍もあり、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。

1954年の2位を挟んで、1955年から1959年まではセ・リーグ5連覇。しかし1956年1957年1958年の日本シリーズでは、元巨人の三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに4連敗。さらに1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許し、水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は、質の高いプレーと観客の目を意識したパフォーマンスを見せ、1年目から期待以上に活躍した。

[編集] 川上監督政権

1961年川上哲治が監督に就任。川上は就任1年目にして見事に日本一を達成。その後、1963年にも因縁の西鉄を破って日本一に。1964年は王貞治がシーズン記録となる55本塁打を記録。この頃、王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また1965年には、球界一の投手であった金田正一が同リーグの国鉄スワローズから移籍している。

[編集] 日本シリーズ9連覇(「V9」)

1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン・ブイきゅう)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。

巨人は1960年代からのカラーテレビ普及による野球中継開始も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集めた。

V9の要因にはまず、王・長嶋という主力選手の存在が挙げられる。V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野茂コーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的であった。さらに、王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄堀内恒夫高橋一三渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手、土井正三黒江透修内野手、柴田勲末次利光高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。

V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。

[編集] 第1次長嶋監督政権

1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。しかし、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島東洋カープの胴上げを本拠地・後楽園で許すという屈辱的な1年だった。その年のオフに日本ハムファイターズから張本勲太平洋クラブライオンズから加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。

1978年オフ、当時法政大学江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる(最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川が一旦阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく)。1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫する。その責任を取り、長嶋監督が退任。また王も現役を引退、球団は大きな転換期を迎えた。

[編集] 藤田・王監督政権

1981年藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。中畑清原辰徳篠塚利夫西本聖ら若手が台頭し、4年ぶりのリーグ制覇を果たす。日本シリーズでは同じ後楽園球場を本拠地とする日本ハムファイターズを破って8年ぶりに日本一に輝く。1983年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズとの激闘の末、3勝4敗で敗れる。1982年にも0.5ゲーム差の2位となっている(大洋・長崎と中日・田尾の首位打者争いのために中日対大洋の最終戦が捨てゲームになったことは物議をかもした)。

その後1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章ウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲームという大差をつけられる。王監督は責任を取りこの年限りで辞任。

1989年、藤田監督が復帰。投手重視のチームを短期間に形成、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけてリーグ優勝を達成する。同年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫して窮地に追い込まれるが、そこから一気に4連勝し、大逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビューアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤がふてぶてしい態度で「そうですね」と答え「巨人はロッテよりも弱い」と報道されたことはあまりにも有名(そのことで選手が奮起したとされるが、形勢逆転の原因は近鉄投手陣の「ガス欠」である)。1990年斎藤雅樹の2年連続20勝もあり2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは全盛期の「黄金期西武ライオンズ」を相手に4連敗と惨敗を喫する。1991年は4位、1992年は接戦の結果2位と2年連続V逸。この年限りで藤田監督が勇退し、球団はまたしても転換期を迎えることになった。

[編集] 第2次長嶋監督政権

1993年には長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。この松井がこの後、90年代から2000年代前期にかけてのチームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても果たした役割は非常に大きい。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドを獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日ドラゴンズ落合博満を獲得する。しかし、ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を感じた駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜ベイスターズへ移籍してしまう。なお、その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年は落合を4番に据えて前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、8月以降に失速。最大10ゲーム差をつけていた2位中日に終盤になって追いつかれてしまう。そして、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は注目されてマスコミでも大きく報道され、長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己斎藤雅樹桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。その後、日本シリーズでは、それまで1度も倒せなかった宿敵の西武ライオンズを4勝2敗で破り、18回目の日本一に輝く。

1995年近鉄バファローズ阿波野秀幸香田勲男との交換トレードで獲得。また広島東洋カープ川口和久ヤクルトスワローズ広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトスワローズを自由契約となったジャック・ハウエルミネソタ・ツインズシェーン・マックを獲得したものの低迷、首位を走るヤクルトとの逆転を目指し、長嶋監督は「メークドラマ」と呼んで選手の奮起を促した。しかし逆転はならずヤクルトに優勝をさらわれてしまう。そして、同年の最終戦で原辰徳が現役を引退。巨人一筋15年の現役生活にピリオドを打つ。1996年は前半こそ首位の広島に苦戦を強いられたが、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーが後半に抑えとしてフル回転の活躍を見せ、松井がわずか23歳の若さでホームランキング争いをするまでに成長し、リーグ史上最大の11.5ゲーム差を跳ね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。同年のオリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでは3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。

1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビとして期待された。この際、清原と入れ替わるように落合が「長嶋監督を悩ませることは出来ない」と異例の会見を開いて日本ハムファイターズに移籍。球団批判から千葉ロッテマリーンズを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し4位と低迷。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団、1998年は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ちがしら趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障し、チームから離脱などが響き3位に終わる。同年オフには上原浩治二岡智宏が入団。。1999年は中日との激しい首位争いを繰り広げるが、前半は波に乗れず、村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、途中獲得した元西武ドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。

2000年は、FA宣言をしていた福岡ダイエーホークス工藤公康と広島の江藤智を獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を復活させた。江藤が3番適正を見せたこともあってか、過去に何度も四番に座りながら結果を残せなかった松井がようやく4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由伸を擁した打線はシーズンで投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放って優勝を決めるなど派手な野球を見せ、1994年、1996年に続き中日の前で胴上げを行った。また日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し、本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。2001年は正捕手候補として逆指名ルーキー阿部慎之助が入団。将来を見据えて阿部が正捕手を掴んだものの経験不足は否めず、ヤクルトと終盤まで優勝を争うと村田真一が正捕手に復帰している。また同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。後任は、原辰徳ヘッドコーチ。球団はまたしても転換期を迎えることになった。

[編集] 第1次原・堀内監督政権

2002年原辰徳監督が就任。原と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣の再生に成功し、1年目にしてセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武ライオンズを相手に球団史上初の開幕4連勝のストレート勝ちで20回目の日本一に輝くという、非の打ち所のない優勝を達成した。しかし、シーズンオフに不動の4番打者で正中堅手ある松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。チームは大黒柱を失うと2003年に松井に代わる大砲としてヤクルトスワローズからロベルト・ペタジーニを獲得したものの、原は守備位置の問題を解決できず、鹿取は一任されていた投手陣を整備できずチームにきしみを生じさせ3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神タイガースに15.5ゲーム差をつけられる惨敗であった。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した(コーチ人事についてフロントとの対立があったとされている)。

2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズを獲得を敢行、また福岡ダイエーホークスから膝の靭帯を断裂した小久保裕紀が前代未聞の無償トレード移籍。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などの他球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという豪華な超重量打線となった。長嶋茂雄終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は1980年近鉄バファローズの239本、セ・リーグ最高記録は1985年阪神タイガースの219本であった)を樹立。しかし、投手陣の大崩壊による防御率の低下が響き成績は前年と同じ3位だった。一方、近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題で球界に激震が走る中、球団スカウトが行った明治大学一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉オーナーが辞任。翌2005年には会長に復帰している。2005年はポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、開幕時レギュラーだった選手が軒並み成績不振に終わり序盤から低迷、8年ぶりにBクラスの5位に終わり、それに伴う観客数や視聴率の低迷により、一部放送局や日本テレビでも中継の延長が中止されたり延長の時間短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えられた。

2005年シーズン中から勃発したストーブリーグでは、来季以降は初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターを招くことも水面下で検討されていたが、この考えが表面化すると球団出身者のみを監督とする伝統を崩すことに一部OBが、さらに日本シリーズでは必ず負ける男を監督とすることとにファンが反発。これを受けて星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した(もっともこのスキャンダルは星野自身による売名行為が発端という説もある)。

2005年10月5日、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表。堀内監督は成績不振の責任を取って、高卒ドラフトで辻内崇伸を引き当てると任期を1年残し退任、さらに8月の時点で清原・ローズが引責という異例の形で自由契約を発表されている。

[編集] 第2次原政権

「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」として福岡ソフトバンクホークスを退任した投手コーチ・尾花高夫を王監督からの直々の打診もあり招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より古巣広島東洋カープに戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。またオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエルといった即戦力投手を獲得。同時にFA宣言した豊田清西武)、野口茂樹中日)も獲得した(豊田のFA補償で江藤が西武に移籍)。また前年30本塁打を放ちながらも起用法に不満を持っていた李承燁ロッテ)を獲得。また金銭トレードという形で過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(同)も加入している。

原監督は2005年にワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げたものの、これは元木大介などの引退により選手が大幅に入れ替わり、深刻な野手不足に陥ったことを承知していたことが原因である。開幕ダッシュには成功したものの、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したために急失速。前回のように控え選手が主力をカバーするには至らず、西武を自由契約となり米国に活躍の場を求めていた小関竜也や、広島を構想外となっていた木村拓也、前年阪神を解雇されたジョージ・アリアスなどが付け焼刃的にチームに次々に加入した。6~7月には8連敗、10連敗、9連敗を立て続けに喫し、順位は急落、一時は最下位にまで転落してしまった。チーム防御率1点以上下げながらも最終的には4位に終わり、球団史上初の4年連続優勝逸、2年連続Bクラス、本拠地最終戦で中日の監督である落合博満の胴上げを許すと言う屈辱的な1年となった。球団は改革に着手、野手総合コーチとして西武黄金期の頭脳伊原春樹が野手総合兼三塁コーチとして招聘され、走塁面の強化に着手。また篠塚内野守備走塁コーチが打撃コーチに配置転換、伊勢孝夫スコアラー(打撃コーチ補佐)、木樽正明スカウトなども現場復帰。また近藤ヘッドコーチが不整脈を理由に退任し、総括ディレクターに就任。 仁志や小久保などが構想外となる一方、かつて球界屈指の右打者であったが怪我に泣いていたオリックス谷佳知を若手選手2名で獲得。また日本ハムファイターズをFA宣言した小笠原道大を獲得し、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜門倉健も加入する。 2007年開幕直前、伊原コーチがヘッドコーチ昇格。5月2日、球団創設以来の5000勝を達成した(中日ドラゴンズ戦、ナゴヤドーム)。節目の勝利(2000勝、3000勝、4000勝)はいずれも対中日戦という奇妙な縁がある(1000勝は広島から)。また、5000勝を記念して6月8日から4試合続く交流戦東北楽天北海道日本ハム戦でV9を達成した川上政権時代の復刻ユニフォームを選手が着用する事となった。同じく、5000勝記念企画として川上哲治や長嶋茂雄、堀内恒夫などの巨人のV9時代を支えた超大物OBが始球式を行うことも決定。また、2軍でも5月29日東京ヤクルトスワローズ戦に勝利し、イースタンリーグ史上初の通算2000勝を達成した。

[編集] 近年の補強傾向

マスコミ(読売・報知・日テレなど)を親会社に持っており、チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。FAの補償制度や取得年数、球団数などとのバランスのためか、処遇が宙に浮いた選手の獲得に動くケースも多いようであり、近年それが自らの首を絞めている。非系列のスポーツ誌などはオールスター休みなどに突然オフのFA目玉選手の獲得記事を掲載する傾向が多いが、野球ファンが信じざるを得ないような補強を行っているのも事実である。

FA制度が導入された1990年代後半、「巨人軍」「長嶋茂雄」というブランドの求心力でFA宣言した他球団の4番・エース、またアメリカのメジャーリーグなどで活躍した外国人選手などを獲得。チームの補強策の一環であることは勿論だが、4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもある。しかし巨人の獲得した選手は、タフィ・ローズと落合博満(ただし年齢による衰えを計算した上で獲得した)以外、どの選手も1年~2年の時期を除き在籍中に期待された成績は持続して残せていない。その原因については、他球団よりもエースといわれる投手との対戦率が非常に高い巨人での活躍が難しいことのほかにも、小久保や石井浩のように既に全盛期の過ぎた選手を期待せず入団させたケース、広沢や江藤のように成績のより優れた選手によってレギュラーを奪われたケース、清原のように延々と戦犯扱いされることで「巨人軍」のブランドの重みを感じていくケースなど多々ある。

    • 第二次長嶋監督時代以降の主な戦力補強(FA制度導入以後、シーズン当初からの計画的補強)
  • 1994年 - 落合博満(一塁手)【中日→FA】
  • 2007年 - 小笠原道大(一塁手、三塁手)【日本ハム→FA】
  • 2007年 - 門倉健(先発投手)【横浜→FA】
  • 2007年 - 谷佳知(外野手) 【2対1での交換トレード】

[編集] チーム成績・記録

チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。

[編集] 試合、勝敗、勝率に関する記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • 優勝 39回(日本記録)
(1936年秋~1937年春、1938年秋~1943年、1949年、1951年~1953年、1955年~1959年、1961年、1963年、1965年~1973年、1976年~1977年、1981年、1983年、1987年、1989年~1990年、1994年、1996年、2000年、2002年)
  • 日本一 20回(日本記録)
(1951年~1953年、1955年、1961年、1963年、1965年~1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年)
  • 連続優勝最長記録 9年(日本記録)
(1965年~1973年)
  • Aクラス 64回
(1936年秋~1946年、1948年~1961年、1963年~1974年、1976年~1978年、1980年~1990年、1992年~1996年、1998年~2004年)
  • Bクラス 8回
(1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年~2006年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年~1961年)
  • 連続Bクラス最長記録 2年(2005年~2006年)
  • シーズン最多勝利 92勝(1955年)
  • シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日~8月3日)
  • シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
  • シーズン最多連敗 11連敗(1975年9月4日~11日)
  • シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
  • シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
  • シーズン最低勝率 .382(1975年)
  • 通算試合 8602試合(日本記録・2リーグ制以降7381試合)
  • 通算勝利 4917勝(日本記録・2リーグ制以降4134勝)
  • 通算敗戦 3424敗(2リーグ制以降3014敗)
  • 通算引分 261引き分け(2リーグ制以降233引き分け)
  • 通算勝率 .589(日本記録・2リーグ制以降.578)(2005年までの数字に基づく)
  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
  • 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
  • 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広島東洋カープ)
  • 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)

[編集] チーム打撃記録

  • 通算本塁打 8268本(日本記録・2リーグ制以降7829本)
  • シーズン最多得点 738得点(2004年)
  • シーズン最多安打 1332本(2004年)
  • シーズン最多2塁打 221本(1953年)
  • シーズン最多3塁打 57本(1946年)
  • シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本記録)
  • シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本記録)
  • シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
  • シーズン最多打点 719打点(2004年)
  • シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
  • シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
  • シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
  • シーズン最多四死球 591個(1950年・日本記録)
  • シーズン最多三振 1083三振(2004年)
  • シーズン最高打率 .292(1952年)
  • シーズン最低打率 .208(1943年)
  • ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本記録)
  • ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
  • ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
  • ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
  • ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本記録)
  • ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
  • ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
  • イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本記録)
  • イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
  • イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本記録)
  • イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本記録)
  • イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
  • イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
  • イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本記録)
  • イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
  • イニング最多犠打 3犠打(多数)
  • イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
  • イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
  • イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
  • 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
  • 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日~1981年9月20日)
  • 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回~6月8日対中日ドラゴンズ7回)
  • 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
  • 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
  • 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回~7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
  • 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日~5月12日、開幕からの連続記録)
  • 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回~7回)
  • 最多連続本塁打 3人(通算5度)
  • 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
  • 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
  • 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日~8月9日)

[編集] チーム投手記録

  • シーズン最多被安打 1427本(2005年)
  • シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
  • シーズン最多与四死球 529個(1978年)
  • シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
  • シーズン最多失点 737点(2005年)
  • シーズン最高防御率 1.38(1943年)
  • シーズン最低防御率 4.80(2005年)
  • ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
  • ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
  • イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
  • イニング最多被本塁打 3本(多数)
  • イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
  • イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
  • イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
  • 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
  • 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日~6月22日)
  • 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日~9月2日)

[編集] チームの特徴

  • ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツから取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
    • 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。
  • 1953年、ニューヨーク・ジャイアンツを真似てチームカラーをオレンジと黒とし、翌年にはYGマークも登場した。1960年はカラーテレビ用として、帽子のつば、胸のロゴ、背番号の3箇所が赤いユニフォームが使用された。1992年まではユニフォームの色も黒とオレンジの組み合わせだったが、長嶋茂雄が監督に復帰した1993年に、黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更され現在に至る。また「GIANTS」のロゴは第1次長嶋監督時代の期間(1975年~1980年)はサンフランシスコ・ジャイアンツにあやかった細長いタイプのローマ字デザインであったが、1981年からの第1次藤田監督時代移行は球団創設時代からのデザイン(早稲田大学のユニフォームと同じ書体であるため、一般に「早稲田文字」と言われる)に戻し現在に至る。ただ2006年からはユニフォーム製作会社の変更もあり、ロゴデザインが花文字に変更される。またホーム用は「GIANTS」の胸の表記は一貫して変更は無いが、ビジター用は以前の「TOKYO」から2002年7月より「YOMIURI」に変更。2005年はシーズン開始から帽子と同一のYGマークを左胸部に付けるニューヨーク・ヤンキースを限りなく意識したデザインになったが、翌2006年からは胸ロゴが「GIANTS」に変更され、同時に地色が黒に変更される(なおパンツの色は白で、上下の色が異なるユニフォームはジャイアンツ史上初である)。また2006年から日曜日・祝日のホームゲーム限定で、ロゴデザインが右上がりの筆記体のユニフォームを身に纏う。
  • 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(創立時に監督を務めた藤本定義もプロ経験はないので他球団OBではない)。一度監督を経験した者の再任はないという内規があったが、1989年に藤田元司が2期目の監督に就任したことで破られた。
  • 巨人といえば数年前までは優勝争いの常連・強豪というイメージが強く、1949年セ・リーグ成立以降、1950年から2005年の55回のうちリーグ制覇は実に30回にのぼりそのイメージの正しさを物語っていた。またチーム成績以外でも、長嶋や王のONをはじめ、次世代でも原辰徳駒田徳広斎藤雅樹など球界を代表する生え抜きのスター選手を次々に輩出してきた。ただ、広岡達朗森祇晶藤田元司宮田征典などのように現役時代にあまり目立たなかったものの引退後に巨人もしくは他球団を常勝球団へと導いた“名将”と呼ばれる名指導者も次々に輩出したため「球界の手本的存在」として君臨してきた。日本シリーズ9連覇(V9)を達成した1973(昭和48)年以降でさえ32年間でセ・リーグ制覇11回(そのうち日本シリーズ制覇は5回)と黄金期を過ぎてからでも実に3分の1以上にのぼる。
  • 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。
  • 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの11年間の長きにわたり使用された。
  • 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。また、「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([1]を参照)。
  • 2006年からエンブレムが変更、「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
  • 松井秀喜清原和博などが在籍していた時期東京ドームは常に満員だったが、観客数を実数発表に切り替えた2003年頃を境にほとんど満員になることはなく、最近では空席が目立つようになった。長嶋監督退任後は、日本一高価である年間予約席の売れ行きが芳しくない。
  • 本拠地である東京ドームの収容人数はよく55,000人だと思われがちだが、これは、プロ野球の全球団が実際の観客数に関係無く水増しして発表してきた数字であり、実際には45,000人強程度である(東京ドームの項も参照)。
  • 近年はファン離れが加速しており、入場者数およびテレビ中継の視聴率が年々下がっている。

[編集] ユニフォーム等のスポンサー

  • ユニフォーム袖(2軍限定) - コナミ
  • 公式戦主催ホームゲームは全試合を「伊藤ハムシリーズ」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げている。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。(1986年までは明治製菓がそれを担当し、「Meijiチョコレート」などの看板を掲げており、チケットや後楽園球場のバックネット裏の看板にも「明治スイートシリーズ」と銘打たれた公式戦であった)

[編集] 歴代本拠地

  • 1937年の後楽園球場の開場より実質的な本拠地として使われているが、フランチャイズ制導入による本拠地としての指定は2リーグ分裂後の1952年である。

[編集] 歴代監督

太字は優勝達成監督。
  • 1934年~1935年 - 三宅大輔、浅沼誉夫 ※1
  • 1936年 - 浅沼誉夫
  • 1936年~1942年 - 藤本定義
  • 1943年 - 中島治康(第1次)
  • 1944年~1946年 - 藤本英雄
  • 1946年~1947年 - 中島治康(第2次)※2
  • 1947年~1949年 - 三原脩 ※3
  • 1950年~1960年 - 水原茂
  • 1961年~1974年 - 川上哲治
  • 1975年~1980年 - 長嶋茂雄(第1次)
  • 1981年~1983年 - 藤田元司(第1次)
  • 1984年~1988年 - 王貞治
  • 1989年~1992年 - 藤田元司(第2次)
  • 1993年~2001年 - 長嶋茂雄(第2次)
  • 2002年~2003年 - 原辰徳(第1次)
  • 2004年~2005年 - 堀内恒夫
  • 2006年~ - 原辰徳(第2次)
※1 ここから東京巨人軍
※2 ここから読売ジャイアンツ
※3 1949年は4月15日まで指揮、7月23日に復帰するまでは中島治康が代行

[編集] 永久欠番

  • 1王貞治(1989年~)
    • 本塁打世界新記録(756本)の功績を称え、決定。
  • 3長嶋茂雄(1974年~)
    • 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。
  • 4黒沢俊夫(1947年~)
    • 現役中に腸チフスで死去。球界初の永久欠番。
  • 14沢村栄治(1947年~)
    • 太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義と坂本茂がつけていた。
  • 16川上哲治(1965年~)
    • 引退後もつけていたが、背番号を77に変更したことを機に決定。
  • 34金田正一(1970年~)
    • 移籍入団選手としては唯一の永久欠番。

尚、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームを模った(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた。王に至っては当時(現在も)福岡ソフトバンクホークス監督という事で次女の王理恵氏が出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。

2007年現在、期間限定で、現在のホームユニフォームをアレンジした形で、ジャイアンツの公式ホームページの通販コーナーで予約発売している。

[編集] 完全試合・ノーヒットノーラン達成者

読売ジャイアンツでは球団史上2人の投手がこれまでに完全試合を、9人の投手が延べ12回ノーヒットノーランを達成している。

完全試合達成投手

年月日選手名スコア相手球場
1950/06/28藤本英雄4-0西日本青森
1994/05/18槙原寛己6-0広島福岡ドーム

ノーヒットノーラン達成投手

年月日選手名スコア相手球場
1936/09/25沢村栄治1-0タイガース甲子園
1937/05/01沢村栄治4-0タイガース洲崎
1937/07/03ヴィクトル・スタルヒン4-0イーグルス洲崎
1939/11/03中尾輝三1-0セネタース後楽園
1940/07/06沢村栄治4-0名古屋金鯱西宮
1941/07/16中尾輝三3-0名古屋金鯱後楽園
1943/05/22藤本英雄3-0名古屋後楽園
1952/07/26大友工17-0松竹大阪
1967/10/10堀内恒夫11-0広島後楽園
1968/05/16城之内邦雄16-0大洋後楽園
1970/05/18渡辺秀武2-0広島後楽園
1976/04/18加藤初5-0広島広島

参考記録

1971/09/06菅原勝矢4-0ヤクルト神宮

7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録

[編集] 史上初のノーヒッター

ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍(当時)から誕生した。巨人軍の当時の豪腕投手だった沢村栄治1936年9月25日甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村は翌1937年5月1日洲崎で開かれた春季戦・タイガース戦、更に1940年7月6日西宮で開かれた名古屋戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎広島)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。

[編集] ノーヒットノーラン被達成記録

逆に、ジャイアンツがノーヒットノーランを達成されたのは8回ある。まだジャイアンツ戦で2度のノーヒットノーランを達成した選手はいない。相手球団は、中日が4回、阪神が2回、広島ヤクルトが各1回で、阪神の1回のみが1940年の1リーグ制時代、他は2リーグ分立後となっている。このうち、1987年8月9日に達成した中日の近藤真一は現在まで唯一のプロ野球公式戦初登板での達成者であり、同時に18歳11ヶ月という最年少記録も保持している。

[編集] 完全試合

日本プロ野球において完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツで完全試合を達成したのは2人である。

日本球界初の完全試合を決めたのは藤本英雄1950年6月28日青森球場で開かれた西日本との一戦で自身2度目(戦前の1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の大偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されないという何とも寂しい結果となった。

そして20世紀最後の完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった記念の試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、1978年今井雄太郎阪急)以来のパーフェクトを達成。現役引退後、TBS解説者として出演する際は「ミスターパーフェクト」として紹介されている。

奇しくも、藤本英雄、槙原寛己の両投手とも、完全試合達成時の背番号は、ともに「17」であった。

逆に、ジャイアンツが完全試合を達成されたことは70余年の球団史上一度もない。日本プロ野球で現存する12球団のうち、直系の前身球団を含めてもこの経験がないのは、ジャイアンツ以外では東京ヤクルトスワローズ