親鸞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

親鸞
1173年5月21日 - 1263年1月16日
諡号 見真大師
生地 京都
宗派 浄土真宗
法然
著作 教行信証

親鸞(しんらん、承安3年4月1日1173年5月21日) - 弘長2年 11月28日1263年1月16日))鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の開祖とされる。没後に皇室から見真大師(けんしんだいし)(明治天皇1876年)の諡号を追贈されている。

 親鸞は、法然浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『教行信証』(正式には、『顕浄土真実教行証文類』) が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。


目次

[編集] 親鸞の教え

親鸞聖人御像 本願寺神戸別院にて
  • 「[[浄土三部経]]」と総称される、釈尊により説かれた『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』を、拠り所の経典と定める。特に『仏説無量寿経』を「大無量寿経(大経)」と呼び、教えの中心となる経典として最重要視した。
  • 阿弥陀仏にこの世で救われて「南無阿弥陀仏」と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、死ねば阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏と同じに生まれることができる。なぜなら阿弥陀仏によって建てられた48の誓願(=四十八願)が完成されており、その第18番目の願(=本願)に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」と誓われているからである。この為、人(凡夫) が往生出来るのは阿弥陀仏の本願によってであり、この(ことわり)を信ずること(=信心)によって、往生する事が出来る(易行道)とし、信心正因称名報恩という。しかも、この信心も阿弥陀仏から賜ったものであるから、すべてが阿弥陀仏の働きであるとし、これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ。ここで言う人(凡夫)とは、仏のような智慧を持ち合わせない人を言う。自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。また、正信偈に「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」とあり、誤り無く信心を持ち続けるのは、非常に難しい事だとも述べている。
  • 他力とは阿弥陀仏の働き(力)を指す。「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、本来の意味の誤用から転じ一般化したものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。
  • 悪人正機」と呼ばれる思想も親鸞独自のものとして知られている。既に親鸞の師・法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人(凡夫) は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人(凡夫)はすべて悪(往生の手段とならない行為)しか成せない。だから、悪人と自覚している人の方が、自分は善人だと思っている人より、本願により救われる道を自覚している事になる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
  • 阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、死んで極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり喜ぶことを勧めた。この考え方は法然を超えたもので、浄土宗と浄土真宗の教義上の違いの一つである。

[編集] 親鸞の生涯

[編集] 誕生

承安3年(1173年4月1日(太陽暦: 5月21日)に、京都市伏見区日野(現、法界寺日野誕生院付近)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり)の長男として誕生する。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)とされる。(最近の研究では、出自を日野氏とする事に疑問を示す意見もある。)

[編集] 得度

治承5年(1181年)9歳、青蓮院(しょうれんいん)において、後の天台座主慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴(はんねん)」と称する。

[編集] 叡山での修行

出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。比叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。

[編集] 夢告

建仁元年(1201年)、29歳の時に叡山を毎夜下り、聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)百日参籠を行い、救世観音に祈念する。そして95日目の暁に、聖徳太子(救世観音)の夢中の示現と偈句を得る。

[編集] 入門

六角堂での夢告に従い、東山吉水の地(京都市東山区円山町)に庵(現、安養寺)を結ぶ法然(源空)上人に入門する。この時、法然は69歳。入門を機に法然より、「綽空(しゃっくう)〔「綽」は、中国の道綽禅師より、「空」は源空(法然)上人)より〕」の名を与えられる。入門後は、岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に庵(現、真宗大谷派岡崎別院)を結び、吉水の法然の元に通ったとされる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。そして、入門より5年後の元久2年(1205年4月14日に、『選択集』の書写と、法然の肖像画の制作を許される。この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信(ぜんしん)」の名を与えられる。

  • 結婚には諸説あるが、法然の元で学ぶ間に結婚したとする説がある。

[編集] 流罪、師との別れ

建永2年(1207年)2月、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。この時、親鸞は僧籍を剥奪され、「藤井善信(ふじいよしざね)」の俗称を与えられる。師、法然は土佐国(現、高知県) に配流となり、親鸞は越後国府(現、新潟県) に配流された。「善信」の名を俗名に使われた事もあり、親鸞は「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。この頃に豪族・三善為則の娘、恵信尼(えしんに)と結婚した説もある。また、配流中に子をもうけている。流罪より5年後の建暦元年(1211年)11月、法然とともに罪を赦された。法然は翌年の1月25日に、京都で80歳をもって示寂、親鸞は二度と師・法然に会う事は出来なかった。その事もあり親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。

[編集] 関東での布教

流罪を赦免されてから3年後の建保2年(1214年)、関東での布教活動の為、家族や性信(しょうしん)などの門弟と共に越後を出発し、常陸(茨城県北東部)に向かう。上野国佐貫庄を経て、建保4年(1216年)に、「大山の草庵(茨城県城里町)」を開くのを皮切りに、「小島の草庵(茨城県下妻市小島)」を開き、稲田郷(茨城県笠間市稲田)に「稲田の草庵」を開く。親鸞は、ここを拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著である『教行信証』は、稲田の草庵にて4年の歳月をかけ、草稿本を完成させたとされる。関東での布教は、約20年間及ぶ。

  • 稲田の草庵を由緒とする寺院はいくつかあり、浄興寺(現在は、新潟県上越市に移転)、西念寺(茨城県笠間市笠間)などがある。
    • 西念寺の寺伝によると、妻の恵信尼は、京には同行せず稲田の草庵に残ったとされ、文久9年(1272年)に、ここで没したとされる。
  • この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。

[編集] 帰京

鎌倉幕府が、念仏者取締令を出す。その為、62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』が完成したとされる。宝治2年(1248年)に、『浄土和讃』と『高僧和讃』を先に脱稿する。正嘉のころには『正像末和讃』を執筆する。以上の3本を「三帖(さんじょう)和讃」と総称する。また、『浄土文類聚鈔』、『愚禿鈔』、『唯信鈔文意』などもこの頃執筆される。この頃の書簡は、後に『末燈抄(編纂:従覚)』『親鸞聖人御消息集(編纂:善性)』などに編纂される。


  • 親鸞が帰京した後の関東では、さまざまな異端が流行した。そこで親鸞は息子の善鸞を説得のため東国に派遣した。しかし善鸞は、異端の専修賢善に傾いたともいわれ、正しい念仏者までも弾圧しようとした。建長8年(1256年)5月29日付の手紙で、善鸞と親子の縁を切る。『歎異抄』に想起される関東衆の訪問はこれに前後すると思われる。

[編集] 妻、 恵信尼との別れ

帰京後の約20年、親鸞と恵信尼は共に暮らす。建長6年(1254年)恵信尼は、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったといわれる。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったとされる。

[編集] 往生

弘長2年(1262年)11月28日(太陽暦:1263年1月16日)、90歳をもって往生する。現在でも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。臨終は、親鸞の弟の尋有僧都(じんうそうず)や末娘の覚信尼が見取った。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

  • 入滅の地には諸説あり、浄土真宗本願寺派の寺暦には、弟の尋有僧都の住坊「善法坊」(現、浄土真宗本願寺派角坊別院) とされる。真宗大谷派の寺暦には、善法院(現、京都市立京都御池中学校付近) とされる。〔光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕
  • 荼毘の地も諸説あり、本願寺派によると鳥辺山南辺(現在の大谷本廟(西大谷)の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとし、大谷派は、鳥部野(とりべの) の南の辺、延仁寺(京都市東山区)にて荼毘に付すとされる。遺骨は、鳥辺野北辺の「大谷」に納められた。
  • また、頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって関東に運ばれ、関東布教の聖地である稲田の草庵に納められたともいう。

[編集] 本願寺の成立

親鸞入滅の十年後文久9年(1272年)に、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)に改葬される。そして、親鸞の御影像を安置し、大谷廟堂となる。その廟堂が本願寺三世覚如により寺院化し、「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り成立する。寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正の法難)まで、本願寺はこの地にあった。(本願寺八世蓮如が宗主の時代)

[編集] 道元との関係

  • 曹洞宗の開祖、道元とは互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが、確証はない。

[編集] 親鸞の著書

ウィキクォート親鸞に関する引用句集があります。

[編集] 親鸞を描いた文芸作品

[編集] 関連項目

  • 親鸞賞(親鸞を記念した文学賞)

先代:</dt>
法然
(浄土真宗元祖)
 </dd>
浄土真宗
 </dt>
宗祖</dd>
次代:</dt>
如信本願寺派大谷派東本願寺派木辺派
真仏高田派仏光寺派興正派
善鸞(出雲路派・山元派)
道性(誠照寺派
如導(三門徒派)
善性(浄興寺派)</dd>

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB