西武ライオンズ

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西武ライオンズ(せいぶライオンズ、Seibu Lions)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。一軍の本拠地はグッドウィルドーム。二軍のチーム名称はグッドウィル。二軍の本拠地は、隣接する西武第二球場を使用する。

なお、一軍の本拠地名称と二軍のチーム名称については、2005年からそれぞれ命名権(ネーミングライツ)を採用している。

<tr><th>フランチャイズの遍歴</th><td>福岡県1952年-1978年)→埼玉県1979年-)</td></tr> <tr><th>タイトル</th><td>リーグ戦:20回、日本シリーズ12回</td></tr> <tr><th>優勝年度</th><td>(リーグ戦)1954、1956、1957、1958、1963、
1982、1983、1985、1986、1987、
1988、1990、1991、1992、1993、
1994、1997、1998、2002、2004
(日本シリーズ)1956、1957、1958、1982、1983、
1986、1987、1988、1990、1991、
1992、2004</td></tr> <tr><th>プレーオフ</th><td>4回 - 2勝2敗(太字は勝利した年)
19822004、2005、2006</td></tr>
西武ライオンズ
チーム名 西武ライオンズ
加盟団体 パシフィック・リーグ
創設年度 1950年
チーム名の遍歴 西鉄クリッパース(1950年
→西鉄ライオンズ(1951年-1972年
→太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年
→クラウンライターライオンズ(1977年-1978年
→西武ライオンズ(1979年-)
本拠地 グッドウィルドーム埼玉県所沢市
収容人員 35879人
オーナー 後藤高志
親会社 西武ホールディングス
プリンスホテル直下)
監督 伊東勤

目次

[編集] 球団の歴史

[編集] 福岡時代

  • 1949年の2リーグ分裂と共に福岡市西鉄クリッパース(にしてつ-、法人名:西鉄野球株式会社)として創立。パ・リーグに加盟。親会社西日本鉄道(同社は戦前も西鉄軍を経営していたが、西鉄軍は1943年に解散したため、現在のライオンズとは直接の関係はない)。戦後すぐの球団再建が認められず、2リーグ分裂まで待たねばならなかった。
  • 1951年2月26日、同じく福岡市を本拠地としていた西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズとなる。
  • 1956年1958年日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。この当時の主力には中西太豊田泰光仰木彬高倉照幸らがおり、「野武士軍団」と呼ばれていた。
  • 西鉄最後の優勝となった1963年南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終戦で奇跡の大逆転優勝を飾る。
  • 1969年黒い霧事件が発覚し池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により大幅な戦力ダウン、それに伴う観客動員数の減少により経営が悪化。本業(交通事業)の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。
  • 1973年ロッテオリオンズ中村長芳オーナーが球団を買い取り、新会社「福岡野球株式会社」を設立。ペプシコーラ日本法人(現サントリー)に買収させる案があったが、同年東映フライヤーズ日拓ホームに身売りされ、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。このためペプシへの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発の太平洋クラブと提携し太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-)に、1977年に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズ(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。
  • 1978年シーズン終了後所沢への移転を発表。国土計画堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、現球団名となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。

[編集] 西武黄金時代

[編集] 伊東監督時代

  • 2004年、伊東監督が就任。これに伴いホーム用ユニフォームが25年ぶりに(微細な変更を除く)一新された。ビジター用の変更は2回あるがホーム用の一新は初めて(ただし球団旗などのロゴは変更なし)。この年導入されたパ・リーグプレーオフで、北海道日本ハムファイターズ福岡ダイエーホークスを接戦の末破り2年ぶり15回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。
  • 2004年シーズンオフ、コクドの事業不振に加え、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も「西武ライオンズ」として引き続き経営されている。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。なお西武グループの再編により、直接の親会社はコクドからプリンスホテルに変わった。
  • 2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(2006年も同日に開催した)。

[編集] チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 20回
    • (1954年、1956年~1958年、1963年、1982年~1983年、1985年~1988年、1990年~1994年、1997年~1998年、2002年、2004年)
  • 日本一 12回
    • (1956年~1958年、1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年、2004年)
  • 前期優勝 1回
    • (1982年前期)
  • Aクラス 40回
    • (1951年~1952年、1954年~1958年、1960年~1963年、1965年~1967年、1975年、1982年~2006年)
  • Bクラス 17回
    • (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年~1974年、1976年~1981年)
  • 最多勝 96勝(1956年)
  • 最多敗 84敗(1971年)
  • 最多引分 14分(1959年、1987年)
  • 最高勝率 .683(1983年)
  • 最低勝率 .311(1971年)

※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで日本ハム、ダイエーと連破して優勝。

[編集] その他の記録

  • 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1989年)
  • 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)
  • 最多本塁打 219本(1980年)
  • 最少本塁打 63本(1951年)
  • 最高打率 .281(1986年、1997年)
  • 最低打率 .222(1967年)
  • 最高防御率 1.87(1956年)
  • 最低防御率 4.60(1979年)

[編集] チーム特徴

  • 西鉄時代は三原・川崎徳次以外は生え抜き監督。太平洋・クラウン時代、また西武になってからも外様監督が続いたが、東尾修以降は伊原春樹伊東勤と生え抜き監督が続いている。
  • 西鉄黄金期の三原時代はトレードに消極的だった(ただし、広島に移籍した大和田明近鉄に移籍した大津守のように、このままチームにいても出場機会に恵まれないと思われる選手を他球団に移籍させることはあった)のに対し、西武黄金期の根本・広岡・森時代は大型トレードを敢行。対照的な手法で黄金時代を作り上げた。
福岡時代
  • 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。
  • 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる。(参考(外部関連記事) スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項
  • 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」は獅子から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。
  • 1953年には中西太選手が平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、当時としては最長不倒の160メートルの大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。
  • 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながらこの雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
所沢時代
  • 球団シンボルマークは西武となって以降、手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。肖像権料は1億円という(しかし作者の手塚は生前、あの球団旗などに採用されたキャラクターは実はレオではなく、父親のパンジャであったと語っている)。球団マスコットとしてもレオが(人型で)登場。マスコットには他に女性キャラのライナがいる。共に背番号無し(ユニフォームのスポンサー・ナイキのロゴ)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用されている。
  • このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されている(現在はSFレオカード)。
  • 西武となって以来、福岡本拠地時代の歴史を極力消す傾向にある。そのため福岡時代のファンの反発は強く、南海ホークスの福岡移転後、ホークスへのファン流出を促進させる結果となった。ファンブックなどで西武球団創立を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。西武のこの姿勢は、黒い霧事件で西鉄に残った悪印象を引きずらないようにしたとの説もある。
  • 2003年のホーム用で使用されていたユニフォームによる白地に緑・青・赤のストライプを配した塗装は「ライオンズカラー」と呼ばれ、ユニフォームの変わった現在でも西武4000系電車西武8500系電車や西武グループに所属する西武バス伊豆箱根鉄道近江鉄道のバスなど様々な場所で使用されている。
  • 1982年に西武としてリーグ初優勝以来、2006年まで25年連続Aクラス入りをしている。1979年~1981年の西武になって最初の3年間は全てBクラスに甘んじたことから言っても、1982年の優勝は大きな転機となったといえる。同年は文化放送ライオンズナイターの放送開始年でもあり、中継放送の恒常化がチームの士気高揚に一役買い、現在までその歩みがAクラスの維持を支えている、と捉えているファンも多い。
  • パ・リーグでは唯一、セ・リーグに現存する全ての球団と日本シリーズで対戦している。

[編集] ユニフォームの変遷

ユニフォームの変遷は次の通り。

  • 1950年~1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」変わった以外、変更点はない。
  • 1951年~1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
  • 1952年~1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の飾り文字が登場。
  • 1954年~1961年 - 西鉄黄金期のデザインが登場。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年からビジター用が「FUKUOKA」となり、1960年には袖番号が付着された。
  • 1962年1965年 - ラインをWラインに変更。また、ビジター用は基本デザインが従来どおりだが、ラインが少し太くなった。
  • 1966年1970年 - ユニフォームにオレンジが登場。この間、1968年にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、1970年にはビジター用がブルーに変更される。
  • 1971年1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ペットマークのライオンが2本足に変更される。同時に西鉄最後のユニフォームとなった。
  • 1973年1975年 - 日本初の原色ユニフォームが登場。ビジター用の赤も世間に強い印象を与える。同時期に袖が赤く、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。
  • 1976年 - 最初で最後のアメフトユニフォーム。しかし、身売りの準備などの悪評から後期は「Lions」のロゴが入り、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のマークを復活。
  • 1977年1978年 - スポンサーがクラウンライターとなり、クラウンの王冠が胸番号の変わりに入った。同時に福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなる。
  • 1979年2003年 - 常勝軍団・西武の黄金期を築いたユニフォーム。ビジター用は1996年2002年に変更されたがホーム用は25年の長きにわたり使用された。
  • 2004年~ - 伊東監督就任を機にカッティング・デザインを駆使したユニフォームに変更。また、帽子から「Lions」のロゴが消える。なおビジター用ユニフォームは2002年以降変更なし。

[編集] ユニフォーム等のスポンサー

[編集] 応援スタイル

  • 得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。
  • 勝利時には炭坑節が演奏される。
  • 「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続ける。
  • 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合で選手の応援歌が異なっていたが2005年以降統一された。
  • 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま。)。しかし、チャンスでの打席になると、その選手の変更前の応援歌が演奏されることもある。グッドウィルドーム細川亨選手がチャンスで打席に立つと、伊東勤監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともある。
  • 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた。
  • 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際等に使用される。
  • アウトテーマは原則的に使用されるがバントアウトなど、アウトを取っても相手が先の塁に進塁した場合は使用しない。
  • 平尾博嗣選手の応援歌に至っては今までにないといってもいいほどの曲調と歌詞であったため、掲示板などでも賛否両論的な議論が展開されたことがある(平尾本人も気に入っていないことが、オフに出演したラジオでの赤田将吾選手の発言により発覚している)。現在ではそのような議論展開も少なくなり、応援歌の一つとして定着してきている。

[編集] 永久欠番

[編集] 歴代の永久欠番

[編集] 準永久欠番

なし。

[編集] 過去の準永久欠番

  • 27:伊東勤
    2004年~2006年の3年間欠番。
  • 32:ミゲール・デルトロ
    メキシコ帰国直後の2001年10月6日交通事故死。翌2002年の1年間欠番。
  • 59:板沢峰生
    1980年12月3日急性心不全で死去。翌1981年から1989年までの9年間欠番。

[編集] 歴代本拠地

西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。

ライオンズの本拠地は現在埼玉県所沢市であり、都道府県庁所在地(埼玉県の県庁所在地はさいたま市)でも政令指定都市でもない市におかれている。これはパ・リーグ6球団の中でライオンズだけであり、セ・リーグでも東京都都心23特別区に本拠地を置く巨人文京区)とヤクルト新宿区)を除くと阪神兵庫県西宮市)だけである。

2005年の東北楽天ゴールデンイーグルスのパ・リーグ加盟により、同年および2006年のパ・リーグ東西対抗では関東の球団ながら西軍とされた。これは、同じ関東の球団の千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉県千葉市よりも西に位置しているためである。

また、西武ドームの敷地内には二軍の本拠地である西武第二球場、屋内練習場、合宿所「若獅子寮」などの球団施設がまとまって立地している他、球団事務所もドームに隣接して設けられている。このため一・二軍間の選手入れ替えが行いやすく、また合宿所住まいの選手は試合終了後すぐ練習に取り掛かれるなど利便性が高い。本拠地球場の敷地内に球団施設がまとまって立地しているケースは他球団では例がなく、当然ながら一軍とファームの本拠地間の距離は12球団の中で最も短い。

[編集] 歴代監督

※1 病気のため指揮をとることなく退団

[編集] 歴代の球団歌

  • 現在の球団歌は「地平を駈ける獅子を見た」であり、松崎しげるが歌っている。他に応援歌として「若き獅子たち」(歌:ライオンズ応援合唱団・1986年発表)、「吠えろライオンズ」(歌:成田洋明、ライオンズ応援合唱団・1996年発表)がある。
  • 福岡時代の主な球団歌

[編集] キーワード

[編集] オリオンズとの遺恨

詳細はライオンズとオリオンズの遺恨を参照

西武ライオンズと千葉ロッテマリーンズとは、前身の西鉄・毎日時代から1952年平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。

[編集] 戦後初の外地遠征

1961年5月21日東映フライヤーズとの試合は戦後初の海外遠征試合としてアメリカの占領下の沖縄1972年に日本本土復帰)で初めて開かれた。

[編集] 14.5ゲーム差を大逆転

1963年の西鉄は前半戦、南海ホークスに14.5ゲームの大差を付けられ3位に甘んじていたが、このシーズンのペナントレースは150試合という大リーグ並みの試合日程で行われたため、逆転の可能性が充分にあった。

後半戦に入って、西鉄の猛追がスタート。一旦4位に転落するもゲーム差はみるみるうちに縮まって10月8日の時点で80勝57敗3分け(勝率.584)で首位に並んだ。その後も2チームのデッドヒートが続き、南海は10月17日、85勝61敗4分け(勝率.582)で全スケジュールを消化。後は西鉄の残り4試合に優勝が委ねられることと成った。

西鉄の残り4試合は全てホーム・平和台での近鉄戦。10月19日と20日にそれぞれダブルヘッダーによる4連戦をこなさなければいけない。しかも逆転優勝をするには4連勝以外になく、3勝1敗なら南海との同点決勝3試合に持ち越し、2勝以下だと南海の優勝となる。

西鉄はこの4連戦、地元で何としてでも優勝するという意識を持って戦い、19日の第1戦を17-5で大勝。続く第2戦も接戦の末3-2で制し、優勝まであと2勝と迫った。あくる勝負の20日の第1戦、負けると自力優勝が消滅する重要な試合も一進一退の好ゲームが展開され、5x-4のサヨナラゲームで辛うじてものにした。西鉄3連勝をしたことで南海のレギュラーステージでの優勝が消滅。後は西鉄の逆転優勝か、それとも同点決勝かの2つに絞られた。そして決戦の大一番となった第2戦。西鉄は若生忠男、安部和春の両投手の完封リレーで2-0の勝利。ついに西鉄はプロ野球史上に残る奇跡の大逆転で1958年以来5年ぶり5回目のリーグ戦優勝を決めた。これが福岡時代のライオンズとしての最後の優勝だった。

[編集] 変則ダブルヘッダー

1973年10月13日に開催された日拓ホームフライヤーズ対太平洋クラブライオンズ戦(後楽園球場)でのダブルヘッダー試合は、日程の関係で第1試合が本来の日拓主催、第2試合は太平洋主催で行われた。対戦チームは同じで主催のみが入れ替わるという珍しいダブルヘッダーだった。

[編集] 胸番号だけのユニフォーム

西鉄時代の1966年にパ・リーグの球団としては初めて、背番号の上にローマ字・アルファベットのネームを書き込んだユニフォームを採用した(※1968年にやめているが1973年から復活。ただし1975年までは「FUKUOKA」「TAIHEIYO CLUB」の2種類だった)。

それが太平洋時代には奇抜なユニフォームを採用していた。1973年~1975年は英語表記にすると「TAIHEIYO CLUB LIONS」となるため、ビジターの試合で使用したユニフォームの前面部では「TAIHEIYO」を大きく目立つようにして「CLUB」は少し小さめに書かれていた。またホーム用は白色だが、ビジター用は赤(メイン)、青(サブ)の2色が使用されていた。

傑物は1976年のユニフォーム。これではチーム名が長くなるので見辛いという事由から、ホームが史上初となるパンツが白でない(ピンク色)ユニフォームで、ビジター(上着もピンク色ベース)との共通では史上唯一となる前面部の企業ロゴを一切なくし、背番号だけを大きく出した「胸番号」のみの、いわゆるアメフトスタイルのユニフォームだった。ただしこのユニフォームで臨んだこの年の前期は最下位に沈み、しかもファンからは「企業名をなくしたのは身売りへの布石ではないか」と勘繰られたため、後期は同じデザインで胸のロゴが「Lions」(ホーム)「TAIHEIYO CLUB」(ビジター)のユニフォームに変更された(この時にもファンからは「企業名を復活させたのは太平洋クラブに対する引き止め工作ではないか」と勘繰られている)。

外部関連記事:特捜プロ野球・太平洋クラブのバカユニホーム

[編集] 札幌ドーム

札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたことから、西武は2003年から札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していたが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズ2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画が明らかになった。一旦は日本ハムと西武で対立ムードが高まっていたが、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化が認められた。しかし、2004年以降西武主催の札幌ドームでの試合は行われていない。

日本ハムは札幌移転後も年間数試合を東京ドームで開催しているが、西武との対戦に限っては西武側が拒否しているため2003年9月28日を最後に行われていない(2007年5月19日20日オリックス・バファローズ対西武戦が東京ドームで開催される。西武は東京ドームでパ・リーグの球団と4年振りに対戦することになる)。

[編集] お台場ドーム構想

当時屋外だったライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かった。そのため、ドーム球場を建設することになったが、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上したが、移転に対する地元住民の猛反発や、多額の建設費用の捻出、更にグループ企業の西武鉄道内からも「電車の利用客が減るのは困る」との意見が出たため困難となり、西武ドームが誕生した。

[編集] 球団名変更への動き

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2005年12月19日、地元・所沢市議会で球団名および球場名に「所沢」の地域名を冠するよう求める請願が全会一致で採択され、2006年1月20日に所沢市長が球団に要望書を提出した。これについて球団側は「球団名については地元密着、沿線密着の観点から今後、多方面に検討していきたい」とコメントしている(所沢を含む埼玉に限らず、西武山口線多摩都市モノレール線からの西東京方面ファンも多く、実際に西東京応援団もいるため、変更の判断を慎重にならざる得なかった)。

2007年1月17日太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名(但し"武蔵国の西部"として地域名を表現する現行の「西武ライオンズ」を含める)を入れる方針であることが報告された。現段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が有力候補。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦を開催する方針であることも伝えられた。

[編集] スカウトによる不正

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2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、更にはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。

この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。

2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。

日本プロ野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また現在は楽天でスカウト部長を務めている当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。

[編集] 放送

ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏埼玉県放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、ほぼ全試合が放送されている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

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