藤原師尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 師尹ふじわら の もろただ 延喜20年6月2日920年7月24日) - 安和2年10月15日969年12月1日))は平安時代中期の公卿藤原北家小一条流の祖で、飛騨国司姉小路家の祖でもある。父は藤原忠平、母は源能有の娘昭子。子に定時、済時らがいる。孫に実方中将として有名な歌人実方がいる。

天慶9年(946年参議となる。天暦2年(948年)権中納言。天暦5年(951年)中納言。

娘の芳子を村上天皇に入内させ、天徳2年(958年女御の宣下を受ける。芳子は容貌すぐれて天皇の寵愛が深く昌平親王と永平親王を産むが、病弱であったため東宮(皇太子)にはなれなかった。

天徳4年(960年)権大納言康保3年(966年)大納言。

康保4年(967年)、村上天皇が崩御して、冷泉天皇が即位すると関白太政大臣藤原実頼左大臣源高明右大臣には師尹が就いた。師尹は実頼と謀って、妃が高明の娘である年長の為平親王を外して、守平親王を東宮に立てた。

安和2年(969年)3月、謀反の密告により左大臣源高明が失脚する(安和の変)。師尹は高明に代わって左大臣に昇るが、その半年後の同年10月、師尹は死去した。安和の変は高明の失脚を謀った師尹の企みであったとされる。後世の人に「腹黒シキ人」と評された。

[編集] 関連項目

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB