蒲生君平

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蒲生君平(がもう くんぺい、明和5年(1768年) - 文化10年7月5日(1813年7月31日))は、江戸時代後期の儒学者尊王論者、海防論者。同時代の仙台の林子平・群馬の高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重の為宇都宮に残していった。それから4代目が父の正栄)に倣い改めた。君平は字で、名は秀実。号に修静庵。

目次

[編集] 家系を聞かされ発奮した幼年期

下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の生まれ。父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む。祖母から祖先が立派な武士(蒲生氏郷公)だと聞かされた時「幼い胸は高鳴り感激で夜も眠れないほどだった、しかし今は町人の子でどうにもならない、学問で身を立て立派な祖先に恥じない人になる決意をした」。

[編集] 儒学者・鈴木石橋に学ぶ

昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋(29歳)の麗澤舎に入塾(15歳)。毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した。塾で『太平記』を読み、痛く感激している。このころ黒羽藩士鈴木為蝶軒にも学ぶ。

[編集] 江戸で藤田幽谷と出会う~水戸学の影響を受ける~

水戸の勤王の志士藤田幽谷の影響を受ける。曲亭馬琴本居宣長ら多くの人物の知己となる。23歳の時、高山彦九郎を慕い陸奥を旅し、帰路に林子平(53歳)を訪ねた(会えたという説と会えなかったという説がある)。その際、子平は君平の名を知っていたが君平の余りに粗末な身なりを見、銭でも乞いに来たと思い「落ちぶれ儒者、その無様さは何だ」と言って笑った。そこで君平は憤然とし、「この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな」と怒鳴って引き返したという、寛政の奇人同士の出会いとして有名な逸話がある。

[編集] 海防調査の旅~主戦論を主張~

ロシア軍艦の出現を聞き、1795年寛政7年)、再び陸奥への旅に出る(帰路、会津で先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額づいている)。1807年文化4年)、北辺防備を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕閣(若年寄水野忠成)に献上するが、幕府の警戒するところとなり喚問を受けて閑居させられる。

[編集] 山陵修復を志す~前方後円墳の名付け親~

  • 京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して天皇陵(古墳)を研究する。父正栄の喪が明けた32歳の時、すべての天皇陵を実際に調べあげる旅に出る(寛政11年11月28日~寛政12年5月24日)。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅する。伊勢松阪の本居宣長を訪れ、大いに激励を受ける。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立に行き、日本海に散骨したという話は有名。帰途、師の鈴木石橋にあいさつに行ったが、身なりは粗末でくたくたくたに疲れ切っていたという。

 調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込に塾を構えて何人かの弟子を講義し貧困と戦いながら、ついに享和元年(1801年)『山陵志』を完成。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができた。その後は江戸に住み、大学頭林述斎に文教振興を建議している。構想していた9志のうち借金で『山陵志』『職官志』まで出版したが、1813年(文化13年)6月病に伏し赤痢を併発して46歳で病没。

  • 没後、明治2年12月には、その功績を賞され勅旌碑が建てられた。さらに明治14年5月には正四位が贈位されている。その他、宇都宮市の蒲生神社(大正15年創建)に祭神として祭られている。『蒲生君平全集』(東京出版社,1911)がある。

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