蒲池鑑広

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蒲池鑑広(かまち・あきひろ、? - 天正8年12月1580年12月)は、筑後国蒲池氏の山下の分家(上蒲池)の大身。志摩守。蒲池親広の子。蒲池鎮運の父。蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の従兄弟。筑後国上妻郡に8千町(8万石)を領した。

大友氏耳川の戦い島津氏に大敗し、勢力が後退したことに乗じて龍造寺隆信が筑後に侵攻した時、筑後の大身は、耳川の戦いで討ち死にした蒲池鑑盛の子で父鑑盛とは違い大友氏から離心していた柳川の蒲池鎮漣や鷹尾の田尻鑑種をはじめ草野鎮永、黒木家永など大半が龍造寺隆信に与したのに対し、蒲池鑑広は龍造寺氏の侵攻に備えた。鑑広は、龍造寺氏の侵攻を予測して家老の矢加部国広と共に籠城態勢を固め、菖蒲尾(八女郡立花町)など所領の上妻郡の各地に兵を配し、天然の要害でもある山下城で龍造寺氏を迎え撃った。龍造寺氏は蒲池鑑広の山下城を包囲し、激しく攻め立てるが、天然の要害でもある山下城に籠もり頑強に抵抗する蒲池氏を攻めあぐねた。鑑広は、立花道雪大友氏の加勢を求めたが、大友氏には耳川敗戦後の自家の立て直しで精一杯であり、蒲池鑑広を助ける助力は無く、やむなく鑑広は秋月種実の仲介で龍造寺氏と和睦する。蒲池鑑広の墓碑は、福岡県八女郡立花町山下の山麓にある。

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