蒋経国
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| 蒋経国 | |
|---|---|
| 蒋経国(左)と父親の蒋介石(右)1948年 | |
| プロフィール | |
| 出生 | 1910年4月27日 |
| 死去 | 1988年1月13日 |
| 出身地 | 中国 浙江省 寧波市 奉化県 |
| 職業 | 政治家 |
| 各種表記 | |
| 簡体字 | 蒋经国 |
| 繁体字 | 蔣經國 |
| ピン音 | Jiǎng Jīngguó |
| 注音符号 | ㄐㄧㄤˇ ㄐㄧㄥㄍㄩㄛˊ |
| 和名表記 | しょう けいこく |
| 発音転記 | チャン チングォ |
| ラテン字 | Chiang Ching-kuo |
蒋経国(蔣經國、しょう・けいこく)字は建豊であり、浙江省寧波市奉化県の人。蒋介石の長男として生まれ、中華民国第6任・第7任(第6期・第7期)総統、中国国民党中央委員会主席、中華民国行政院長、国防部長総政治作戦部主任等を歴任した。墓所は桃園県頭寮。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生涯
蒋介石の長男として、中国浙江省に生まれる。生母は毛福梅だが、経国誕生後に離婚している。なお弟の蒋緯国は養子だったため、血のつながりはない。名前の由来は中国の魏の初代皇帝曹丕の「文章は経国の大業、不朽の盛時なり」との言葉による。
1922年、15歳の時に上海で学生生活を送るようになり、呉稚暉の影響を受け、1925年の五卅運動に積極的に関与している。その後、父・蒋介石と対立し、中国共産党に入党する。同年10月には本格的な共産主義者になるべく、ソビエト連邦のモスクワ中山大学に留学し、1927年に卒業している。留学中はソビエト共産党にも正式に入党する(後にこれらの経験から政治将校などといった共産主義のノウハウを取り入れた)。中国国民党と中国共産党の間の関係の悪化でヨシフ・スターリンより事実上の人質にされ、またスターリンとレフ・トロツキーの権力闘争ではシベリアに送られるなどの体験をしている。また現地でロシア人の妻「Faina Epatcheva Vahaleva」(中国語名、蔣方良)と結婚している。
1937年3月25日、西安事件を機にソ連より帰国、父である蒋介石と和解し、翌年中国国民党に入党する。1939年に江西省第4区(贛南地区)行政督察専員兼区保安司令に就任すると、綱紀粛正を軸とした内政面で手腕を発揮し「蒋青天」と称されるようになる。1944年には三民主義青年団組訓処処長、青年軍編練総監部政治部中将主任に就任、1948年には金円券改革のため蒋経国は上海にて経済統制を実施、孔宋集団との間に対立を発生させている。
1949年、蒋介石の命令を受けた蒋経国は中央銀行の外貨及び金の台湾島への移出業務に参加する。国民政府が台湾島に遷台すると1950年に総政戦部主任に就任し、政府改制作業に着手、同時に総統府資料室主任(国家安全局の前身)を兼任し、中華民国の情報機関を統括することとなった。
同年7月、国民党中央改造委員に任命され党政策立案の中枢に参加、1952年には「中国青年反共救国団」(現在の中国青年救国団)を成立させ、教育機構と学生に対する影響力を増大させている。1954年、国防会議副秘書長に就任し、着実に権力基盤を高めて行った。これ以降の主な職位としては行政院退除役官兵就業輔導委員会主任委員(1956年)、国民党中央常務委員(1957年)、国防部副部長(1964年)、国防部長(1965年1月3日)、行政院副院長兼財経委員会主委(1969年6月)、行政院長(1972年5月29日)等がある。
蒋経国は1966年に韓国、1967年に日本を相次いで訪問し、1970年には4度目の訪米を行なうが、ニューヨークで中華民国人青年の黄文雄、鄭自才による暗殺未遂事件に遭遇している。
1972年の政院長就任後、1975年には中国国民党中央委員会主席兼中央常務委員会主席に就任し、党内の支持基盤を確立、次期総統就任への準備が着実に進められた。一説では、1969年に父親の蒋介石が交通事故に遭って表舞台に出なくなってからは、彼が実質的な最高権力者の地位にあった、とも言われている。
[編集] 中華民国第6期総統
1978年、第5期総統代行である厳家淦の任期満了に伴い開催された第1回国民大會により中華民国第6期総統にに指名され就任した。総統在任中の蒋経国は中華民国国内のインフラ整備(十大建設)を積極的に推進し、また李登輝をはじめとする本省人の登用など斬新な改革を行い、中華民国経済の発展とともに日・米との断交後の難しい政局を乗り切った。また中華民国の急速な経済発展に成功し、一人当たりの国内総生産額が6,000ドル超えるようになり、中華民国をして「アジア四小龍の一つ」と言わしめる成果を上げている。このため後に開発独裁の嚆矢、リベラルな独裁者と評され、国内でも高い評価を得ている。しかし一方で「特務機関の黒幕」として台湾独立派を大々的に弾圧・処刑したという批判も根強い。
1984年には第7期総統に再任されたが、1988年1月13日、糖尿病に起因する臓器疾患により、台北栄民総医院にて死去した。その職務は憲法の規定に従い副総統であった李登輝に継承された。
[編集] 政治の民主化
蒋介石の死後、中華民国社会は経済的発展と民主政治の追究が唱えられるようになった。この期間中1977年には中壢事件、1979年に美麗島事件が発生するなどその潮流は社会で表面化するまでになっていた。蒋経国は両岸関係を中心とする国際情勢と「台湾島の本土化」の情勢を早期に認識しており、経済のみが先行している中華民国は、「社会を更に解放し政治の民主化を実現してこそ初めて中華民国は存在できる」との認識を有していたとされている。1980年代、蒋経国は民主改革を推進し、戒厳令解除、政党結成とメディア規制の撤廃という開放政策を実施した。1987年7月15日、「国家安全法」が施行されると、38年間にわたり施行されていた台湾及び澎湖地区の戒厳令が正式に解除され、また30数年にわたって続いた政党結成とメディアへの規制を撤廃した。
[編集] 家庭
蒋経国と蒋方良の間には3男(蒋孝文、蒋孝武、蒋孝勇)1女(蒋孝章)をもうけた。また江西赴任中には章亜若との間に双子の章孝嚴(2005年3月改姓し「蒋孝厳」となる)と章孝慈を設けている。
[編集] 関連項目
- F-CK-1(中華民国の国産戦闘機。経国の愛称がつけられた)
- 蒋介石
- 宋美齢
- 毛沢東
- 張学良
- 西安事件
- 中国国民党
- 中華民国の歴史
- 日中戦争
- クレア・リー・シェンノート
- フライングタイガース(アメリカ人義勇軍部隊)
- 台湾
[編集] 外部リンク
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