蒋介石
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| 蔣 介石 | |
|---|---|
| 軍人・蔣介石(1945年5月) | |
| プロフィール | |
| 出生 | 1887年10月31日浙江省 |
| 死去 | 1975年4月5日台北市 |
| 出身地 | 中国浙江省奉化県 |
| 職業 | 軍人、政治家 |
| 各種表記 | |
| 簡体字 | 蒋中正 |
| 繁体字 | 蔣中正 |
| ピン音 | Jiǎng Zhōngzhèng |
| 発音転記 | チャン・チョンチェン |
| ラテン字 | Chiang Chung-cheng |
| 英語名 | Chiang Kai-shek |
蔣 介石(英称: Chiang Kai-shek、しょうかいせき、チャン・チィエシー、拼音: Jiǎng Jièshí, 広東語: Jéung Gaaisek, 閩南語: Chiúⁿ Kài-se̍k)は中華民国の政治家・軍人・国民政府主席・第一任~第五任(第1期~第5期)総統。名は中正で介石は字。台湾では蔣介石よりも蔣中正の名称が一般的。欧米のメディアからは「大元帥」を意味するGeneralissimoとも呼ばれていた。
| 原名 | 周泰 |
|---|---|
| 幼名 | 瑞元 |
| 学名 | 志清 |
| 名 | 中正 |
| 字 | 介石 |
目次 |
[編集] 人物
1887年に現在の中華人民共和国の浙江省奉化県で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれる。成人後は日本の陸軍士官学校へ留学し(当時は中村という日本名を名乗っていた)、その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得、後に中華民国の主席となる。
永く中国共産党と敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカやソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。1945年からは再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北し台湾島に撤退。その後1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。
行動的な反共主義者として知られており、日中戦争当初は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。戦後は日本の反共的な政治家と結び、特に同じ反共産主義的な思想を持つ岸信介などとは個人的な親交があったようである。しかしながら、積極的な行動とは裏腹にその反共主義は中途半端で不徹底なものとの批判がある。国民党の独裁体制はソ連の軍制の視察などを通じて研究した共産党の模倣であり、蒋介石本人も「党国体制」と呼称し、事実上認めている。
[編集] 略歴
- 1887年に中国浙江省奉化県渓口鎮に生まれる。
- 1902年毛福梅(当時19歳)と結婚。
- 1906年保定陸軍速成学堂で軍事教育を受ける。
- 1907年(明治40年)、渡日し陸軍士官学校へ留学する。
- 1909年大日本帝国陸軍に勤務。( - 1911年)
- 1910年蒋経国誕生。(後年、毛福梅は出家、離縁する)
- 辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。
- 1923年孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。
- 1924年広州の黄埔軍官学校校長に就任。
- 1926年7月1日、中国共産党・地方軍閥に対し北伐を開始。
- 1927年(民国16年)、宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と結婚。
- 1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。
また同年9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談。ただし物別れに終わる。
- 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
- 1936年、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。
- 1937年(民国26年)、盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。
- 1943年、カイロ会談に参加する。
- 1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。
- 1946年、国共内戦に突入する。反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。
- 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)
- 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる
- 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)
- 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。
- 1975年4月5日、死去。死因は心臓病とも言われる。享年88(数えで89)。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。
[編集] 蒋介石の歴史的評価
蔣介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾島に移ってからも強力な指導力を持ち中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、台湾島に移ってからは白色テロを起こした独裁者として、さらに自身の息子に権力を世襲するなど共和国家の原則に叛き事実上の君主として振舞ったとして非難される面の両面を持っている。
[編集] 中華民国
戒厳体制及び国民党与党時期下では中華民国の指導者、建国者として尊敬の対象とされていた。蔣介石の銅像は中華民国のあちこちにある。さらに中華民国の学校には孫文と蔣介石の肖像画が必ず飾られている。切手や色々なものには建国者蔣介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖をまねたものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。
一方では二・二八事件など数々の本省人差別行為、戒厳令、白色テロを起こしたとして、特に本省人の中では「アメリカは、日本には原爆を落としただけだが、台湾には蒋介石を落とした」として、根強い拒否反応を持つ人も多い。蔣介石は息子に台湾島の支配権を譲るなど共和国の指導者としては不適切な振舞いを見せたことも評価を下げる要因である。ただし、かの息子の任内により、台湾島の経済政策・民主化政策・本省人登用政策などを推行する一面もあり、単に本省人差別の独裁の家系とも言い難い。
[編集] 日本
蔣介石は日本の陸軍士官学校で軍事教育を受け、日本の支援で清朝打倒に奔走するなど日本との関係が深かったが、後に中国共産党と合作して、日中戦争から終戦まで日本軍と戦った。自身の日記では日本を「倭」と表記し終始蔑んでいたが、戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称する「寛大な対日政策」に基づき日本兵の中国大陸からの復員に対し最大限の便を図ったとされることで好意的に評価する日本人もいる。戦後、日本の天皇制を廃止しようとした。
日本のことを熟知している蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。
- 「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)
- 終戦時の在中日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の指導力のお陰で10ヶ月で復員・引揚を完了させている。
- カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった。
カイロ会談秘話(日本占領の構図)とは、ソ連が北海道を、本州をイギリスとアメリカで、九州を中華民国が分割統治する計画(アメリカ合衆国外交関係文書に記載)。詳細は日本の分割統治計画に。
[編集] 蔣介石の名を冠す場所
- 中正国際空港(桃園県にある中華民国最大の国際空港。英語では蒋介石の英語表記の略をとり、C.K.S airportと言う。) ※2006年9月6日台湾桃園国際空港と改称された。
- 中正路(中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。)
- 中正紀念堂(蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた。常時中華民国軍の衛兵によって守衛されている。)2007年6月に台湾民主紀念館と名称が変更された。
- 箱根彫刻の森美術館中正堂(箱根彫刻の森美術館内にある蒋介石のご恩を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。)
[編集] 台湾の紙幣
没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蔣介石の肖像が使われてきた。李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。→
[編集] 「蒋介石」という呼び方
日本における、(少なくとも)中国近代の歴史の記述では、中国人の名前の呼び方は、通常、「姓+字」ではなく、「姓+名」を用いる。例えば、袁世凱、毛沢東、周恩来、張作霖、孫文、黄興、宋教仁、段祺瑞などである。汪兆銘(「姓+名」に加えて、「姓+号」である「汪精衛」がしばしば用いられる)という例外があるが、日本との深い関係がその理由だとも推測される。これらと対比して、蒋介石の場合、「姓+字」が一般的に用いられているということのみならず、「姓+名」である「蒋中正」という呼び名が、専門家や一部の中国近代史に詳しい者以外には、日本においてはほとんど知られていない、かつ、使われていないという、奇妙な状態になっている。この理由は、(蒋介石による)自己使用説、日本マスコミ説(日本の新聞説)、日本政府公式文書説、歴史家説などがありうるが、現在までのところ不明である。なお、英語でも「Chiang Kai-shek」で、「蒋介石」を訳した呼び方となっている。
[編集] 参考文献
- 蔣介石秘録取材班『蔣介石秘録』全十五巻(産経新聞社)
- 蔣介石秘録取材班『蔣介石秘録-日中関係八十年の証言-』上下(産経新聞社)
- 保坂正康『蔣介石』(文春新書)
[編集] 関連事項
[編集] 外部リンク
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