葛飾郡
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葛飾郡(かつしかぐん)はかつて下総国・武蔵国に存在した郡。 西は東京都墨田区や江東区、東は千葉県船橋市・鎌ケ谷市 、北は埼玉県栗橋町・茨城県古河市にまたがる広大な郡であった。
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[編集] 歴史
古代の律令制の時代に、下総国の葛飾郡が定められたといわれる。下総国の国府は、この葛飾郡に置かれ(現在の市川市)、下総国の政治的な中心であったといわれる。また、万葉集においても葛飾の名は残っていて、特に真間の手児奈伝説は有名である。
中世には郡内に下河邊荘、下河邊野方荘、八幡荘、松戸荘、風早荘、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿俣荘、大結牧といった荘園が成立した。また、この地域が広大であった事から太日川(後の江戸川)を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称する慣習が現れた(ただし、正式な郡名ではない)。
近世以前は葛飾郡全域が下総国であったが、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(元の渡良瀬川、当時の利根川下流)より西側の地域を武蔵国に編入した(この地域を「葛西」と呼ぶ場合もある)。しかし、同じ寛永年間に関宿(現野田市)・金杉(現松伏町)間の東側に新たな流路が開削され、後にこれが江戸川の本流となったために、この区間では下総国葛飾郡が江戸川の両岸にまたがることになった。
江戸時代、徳川幕府の支配の下で、当郡内のうち江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれた。一方、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された(古河藩、関宿藩)。初期には山崎(現野田市)や栗原(現船橋市)、藤心(ふじごころ。または相馬郡舟戸。ともに現柏市)に規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた。
明治に入り旧幕府直轄地及び旗本支配地等に府県が置かれると、武蔵国葛飾郡のうち東京(旧江戸)市街の一部に属する本所・深川は東京府、それ以外の区域が概ね小菅県、下総国葛飾郡は概ね葛飾県(一部は小菅県)の管轄となる一方、府藩県三治制の下で関宿藩や古河藩などの藩管轄区域も分布した。1871年(明治4年)の廃藩置県後、武蔵国葛飾郡のうち大場川および小合溜以南の区域が東京府に編入され、以北の区域は埼玉県の所属となった。下総国葛飾郡は印旛県を経て千葉県の所属となったが、1875年(明治8年)には利根川以北の区域が茨城県に、江戸川以西の区域が埼玉県に移管された。1878年(明治11年)の郡区町村編制法により、武蔵国葛飾郡のうち東京の市街地および隣接区域が本所区・深川区として郡から離れ(1889年(明治22年)の市制施行により東京市の区となる)、残りの区域が所属する国および府県によって次の5郡に分割された。
このうち中葛飾郡と西葛飾郡は、1896年(明治29年)の郡制の施行に際してそれぞれ北葛飾郡、猿島郡と合併して編入されている。
[編集] 範囲
葛飾郡のあった概ねの範囲を、明治以後の分裂した郡に分けて、現在の行政区画で記す。
[編集] 南葛飾郡
現在は南葛飾郡自体は消滅している。近世までは、この地域を指して葛西と呼んでいた。
[編集] 北葛飾郡
[編集] 中葛飾郡
1896年に北葛飾郡に編入されたため、現在は消滅している。
[編集] 東葛飾郡
1897年に南相馬郡であった地域(現:我孫子市・柏市の大半(旧沼南町全域を含む))も東葛飾郡に編入された。
2005年3月28日に沼南町が柏市と合併し、行政地名としての東葛飾郡は消滅した(東葛地域を参照のこと)。
[編集] 西葛飾郡
1896年に猿島郡に編入されたため、現在は消滅している。
[編集] 現存する名称
現在の葛飾区にその名前を残すほか、北葛飾郡は現在も存続している。
千葉県の東葛飾郡にはかつて葛飾村(1931年に葛飾町)があったが、1937年に船橋町などと合併して船橋市の一部となった。旧葛飾町の区域内に船橋市立葛飾小学校、同葛飾中学校がある。またこの区域を通過する京成電鉄本線に「葛飾駅」があったが、1987年に「京成西船駅」と改称した。駅名標には現在も「旧葛飾」の表記がある。
市川市にある葛飾八幡宮、柏市にある千葉県立東葛飾高等学校、春日部市にある葛飾中学校などにも、その名をとどめている。

