萱野重利

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萱野 重利かやの しげとし寛永5年(1628年) - 元禄15年8月6日1702年8月28日))は旗本大島家の家老萱野三平重実の父親。三平はこの父と主君浅野長矩の忠孝のはざまで苦悩し、ついには自刃する道を選んだ。通称は七郎左衛門(しちろうざえもん)。

5000石の旗本大島家の家臣萱野恒重の子として摂津国途豊郡萱野郷に生まれる。兄重次の養子に入って萱野家の家督を継ぎ、主家の大島出羽守義近・大島伊勢守義也父子に家老として仕えた。

彼の三男である萱野三平重実は、13歳のとき、主君である大島義近が同じ山鹿素行の門下として親しくしていた赤穂藩主浅野内匠頭長矩に小姓として推挙したため、そのときに赤穂藩士となっていた。しかしのち赤穂藩は、浅野長矩が吉良上野介義央への殿中刃傷に及んだため改易となった。萱野三平はそのとき、江戸をたって急使として赤穂へ派遣された。そのまま赤穂城大石内蔵助良雄派となり、その神文血判の盟約にも名を連ねた。

赤穂城開城後は郷里の萱野郷の実家に身を寄せていたが、大島義近の子義也は、三平の再度の大島家への仕官を認め、重利も三平に仕官を勧めた。しかし三平が断ったため、仇討ちするつもりではないかと重利も疑うようになり、一党から抜けるよう三平に命じた。忠孝の間で苦悩したすえ、元禄15年1月に萱野三平は自刃した。三平の後を追うようにこの父も同年8月6日に死去。享年74。萱野家の家督は長男で三平の兄の萱野利右衛門重通が継いだ。

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