華国鋒

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華 国鋒(か こくほう。Huà Guófēng あるいは Huá Guófēng1921年2月16日 - )は、山西省交城県出身で、中華人民共和国の政治家、元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。

目次

[編集] 経歴

中華人民共和国

中華人民共和国の歴史


組織集団
中国共産党 · 人民解放軍


主な出来事
国共内戦 · 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 · 改革開放
第一次天安門事件
第二次天安門事件


人物
毛沢東 · 周恩来 · 朱徳
劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平
江沢民 · 李鵬 · 朱鎔基
胡錦濤 · 温家宝


理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 · 鄧小平理論
4つの基本原則 3つの代表


統治機構
全国人民代表大会
中華人民共和国国務院
 


地域
中国 · 華北 · 東北
華東 · 華中 · 華南
西南 · 西北
中華人民共和国の行政区分

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1940年から故郷で抗日連合会の主任を務め、後に共産党の同県書記となった。1949年の中華人民共和国成立後は、毛沢東の故郷である湖南省湘潭県で同党書記を務めた。

その後、文化大革命では湖南省の第一書記となり、毛沢東の忠実な部下として昇進した。公安部長から、1975年には国務院第一副総理(副首相)に就任、党内序列も第6位となる毛沢東の人事バランスの結果とされる。1976年1月には周恩来の死を承けて総理代理、党第一副主席。(総理代理に王洪文が有力視されていたが、それを抑えての就任だった。)となった。さらに同年9月に毛沢東が亡くなると、党主席、中央軍事委員会主席に就任する。

1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ」という委託を受けたとされている。しかし、中国共産党中央文献研究室の『毛沢東伝』では否定されている。これは当時毛沢東の私設秘書であった張玉鳳の手記を引用したもので、国際上の問題について尋ねた華国鋒に「既定の方針にしたがってやれ」「あなたがやれば私は安心だ」と言ったに過ぎず、事実に合わないとの見解を党は示している。 しかしながら様々な文献の中では一貫して、以上の毛沢東の言葉は華国鋒が四人組の攻撃に耐え切れずに毛沢東に辞意を示したときに、声の出なくなった毛沢東が紙に書いたとされている。その後の政治局会議でその紙を政治局員らに見せ、攻撃を乗り切ったとされる。

同年10月6日に、文化大革命の主導者であった江青張春橋などの四人組を逮捕した。これは毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させるものとなった。

1977年には「両個凡是」(2つの全て)の方針を示し、文化大革命には是々非々の立場を表明したが、かつては実権派として失脚・迫害された鄧小平などからの強い批判を浴びた。

その後、1980年に首相を、そして翌1981年には党主席を辞任した。四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、鄧小平らと激しい権力闘争を展開し、最終的に追い落とされたと言われる。

ただし、その後も2002年11月に引退するまで中国共産党の中央委員を務めた。外国メディアとの接触は断ち、中国国内でその動静を伝えられることは極めて希であったが、ある程度の政治的活動は認められていたと考えられている。

[編集] 指導者としての評価

[編集] 内政

首相や党主席に就任した時は文化大革命の末期で、混乱した中国社会の再建が急務であった。最初の行動が四人組の逮捕であり、その後も共産党の指導性を維持しつつ、社会の安定を取り戻そうとする試みを続けた。

ただし、彼自身が文化大革命の時期に台頭し、毛沢東思想の信奉者であったため、四人組に連なる党内左派の排除は緩やかであり、その一方では鄧小平ら右派の台頭も抑え込めなかったため、党内では不安定な立場のままだった。

その曖昧さは経済運営にも反映され、人民公社の解体は慎重に進められた。この時期は、中国が鄧小平の指導で改革・開放政策による急速な経済発展へと進む前段階であったとも言える。

党主席に就任した後は毛沢東の肖像画の隣に自らの肖像画を飾った。また個人崇拝の絵が存在している。(鄧小平の肖像画や絵はほとんど存在しない)

[編集] 外交

毛沢東・周恩来時代の末期の外交路線を踏襲し、アメリカ合衆国との接近とソビエト連邦との対決を進めた。

1979年1月にはアメリカ(ジミー・カーター大統領)との国交を樹立し、自らが「中国を代表する唯一の正統政府」であるという立場を認めさせた。ただし、アメリカはこの国交樹立によって自動的に外交関係が断絶した台湾中華民国政府とも実質的な協力関係を維持したため、中国はアメリカによる対台湾軍事援助などを止めさせることは出来なかった。

また、日本福田赳夫内閣)との間では1978年日中平和友好条約を締結し、戦争状態を完全に終結させた。

一方、ソビエト(レオニード・ブレジネフ共産党書記長)との対立は依然として厳しく、国境では人民解放軍の大軍がソビエトの侵攻に備えた。日中平和友好条約締結の際には、中国側がソビエトを念頭に「覇権主義への反対」を条文として盛り込むように要求し、「第三国」という表記で決着するという事態になった。

また、1978年1月にソビエトの支援を受けたベトナムカンボジアに侵攻し、ポル・ポト首相の民主カンプチアを倒すと、ポル・ポト政権と関係の深かった中国は激しく反発し、1979年1月には「懲罰」と称してベトナムに侵攻した(中越戦争)。ただし、人民解放軍は大きな損害を出し中途半端な状態で戦争を終わらせてしまい、軍事・外交の両面で得る物はなく終わった。その後も、カンボジア内戦ではポル・ポト派を支援し、ベトナムとの外交関係は断絶したままであった。

[編集] 四人組逮捕と華国鋒

これまで四人組の逮捕については、葉剣英・中央軍事委員会副主席が中心となって画策し、逡巡する華国鋒に決断を迫ったという見方があった(『毛沢東秘録』産経新聞社)。しかし最近、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。

先代:</dt>
周恩来</dd>
国務院総理</dt>
1976年 - 1980年</dd>
次代:</dt>
趙紫陽</dd>

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