若狭国

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令制国一覧 > 北陸道 > 若狭国

若狭国の位置

若狭国わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、北陸道に位置する。現在の福井県南部に当たる。

福井県では嶺南(れいなん)と呼ばれる事も多いが、敦賀市は若狭国には属しておらず、越前国に入れられている。又、若州(じゃくしゅう)と呼ばれる事もある。延喜式での格は中国、近国。藤原宮時代の木簡には、「若佐国」と表記されている。

本州の中で最も人口が少ない国。

目次

[編集] 歴史

[編集] 畿内政権の時代

律令制で統一国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造や角鹿国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造やツヌガアラシトの記述がある。しかし、4世紀後半にはヤマト王権の支配下に入れられた。

ヤマト王権の支配下に入れられると、7世紀に若狭国が設置された。当初は遠敷郡三方郡から成ったが、 825年天長2年)7月10日 (旧暦)に、遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。

特に奈良時代の若狭国は、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国」の一角となった。奈良東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するである。これ以後は明治維新に至るまで、若狭地方は、「近畿」の字の如く、「(みやこ)の近く」を代表する地域として発展した。

[編集] 幕府の時代

戦国時代の若狭国は、尾張国愛知県西部)や近江国滋賀県)や山城国京都府南部)などと一緒に、織田信長(本拠地:清洲安土)や豊臣秀吉(本拠地:清洲→長浜)の支配圏に属し、山内一豊など豊臣系大名も支配していた。

江戸時代になると、若狭地方は小浜藩の領土となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、特に敦賀小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ国道367号が「鯖街道」と呼ばれているように、江戸時代には特にの水揚げが多かった。

幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は悉く殺害された。

[編集] 明治維新以後

明治維新を迎えると、若狭地方は敦賀県に置き換わった。しかし、1873年1月には足羽県と合併させられ、その後の1876年8月21日に敦賀県が分割されると、滋賀県に編入された。しかし、4年半後の1881年2月7日には、若狭地方は滋賀県から分離されて、福井県に編入された。この決定に怒った若狭地方民と滋賀県知事は、何度も若狭地方の滋賀県への復帰を懇願したが、却下されてしまった。

明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、若狭地方にも北陸本線小浜線の敷設が進められた。

第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。

[編集] 国府・一宮など

国府は現在の小浜市にあったと考えられているが、正確な位置は不明である。

延喜式神名帳には大社3座2社、小社39座39社の計42座41社が記載されている。大社2社は若狭比古神社(現在の若狭彦神社と若狭姫神社)と宇波西神社で、どちらも名神大社となっている。一宮は若狭彦神社、二宮は若狭姫神社である。

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

[編集] 国司

[編集] 若狭守

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[編集] 関連事項

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