若槻禮次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若槻礼次郎 から転送)
この項目の本来の表記は「若槻禮次郞」です。一部の日本語環境で表示できない文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いています。
若槻禮次郎正装

若槻禮次郎わかつき れいじろう慶応2年2月5日1866年3月21日) - 昭和24年(1949年11月20日)は、日本政治家。第25代および第28代内閣総理大臣勲一等 男爵

国際会議に臨んで「生命と名誉のごときは、これを顧みない」と当時の英米全権に心情を吐露し、外交では評価された。しかし優柔不断な側面があった。


目次

[編集] 略歴

現在の島根県松江市雑賀町に松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎の次男としてうまれ、後に叔父の若槻敬の養子になった。旧制松江中学、司法省法学校をへて帝國大學法科大学(現東京大学法学部)を首席で卒業。大蔵省に入省し主税局長、事務次官となり、1911年貴族院議員となる。第三次桂太郎内閣、第二次大隈重信内閣で大蔵大臣をつとめ加藤高明内閣で内務大臣に就任した。内相就任中、普通選挙法治安維持法を成立させた。ロンドン海軍軍縮会議において首席全権をつとめた。

[編集] 第1次若槻内閣(1926年1月30日 - 1927年4月20日

加藤首相が在職中急逝したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。

12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかない。明けて昭和2年1月、少数与党で臨んだ第52議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」にかんして野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は政友会田中義一総裁と政友本党床次竹二郎総裁を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。

また議会終了間際、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相は野党の執拗な追及に対し、部下から受け取ったメモ、「本日正午、東京渡辺銀行支払いを停止せり」を読み上げてしまう。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で東京渡辺銀行に預金者が殺到し、倒産に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発するのである。

大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行成金たちはここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。

若槻内閣はこの状態に対し、台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に提出するが否決されてしまう。政策実行不能と考えた若槻は内閣総辞職を決行し、立憲政友会田中義一に組閣の大命が下ることとなる。

しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、1926年7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんらリアクションを取らなかったのである。実はこれが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって次代の田中内閣で、同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。

但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる。

[編集] 第2次若槻内閣(1931年4月14日 - 1931年12月13日

次に若槻が内閣を組織するのは1931年4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。浜口内閣の失策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州モンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石の北伐により危機に瀕していた。

当時軍部では汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し強い危機感が生まれていた。そんななか「世界最終戦論」を唱える関東軍石原莞爾板垣征四郎土肥原賢二らによって柳条湖付近の南満州鉄道が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは長春を占領、土肥原を新市長につけてしまう。

これは統帥権の所在の不明確さに原因がある。統帥権は憲法上天皇にあるが、実際天皇は軍部に対して直接指令することはなく、内閣の軍部大臣が内閣の方針を軍部に伝えていたのである、緩やかなシビリアンコントロールともいえる。ところが満州事変の場合、閣議で決定した「不拡大方針」を関東軍につたえると、「統帥権干犯だ」といわれ突っぱねられてしまう。つまり関東軍は今までの慣例を破壊してしまったのである。

直後の閣議では不拡大方針が決定され、若槻は両軍部大臣、林奉天大使にもその旨を伝えている。しかし、各新聞は関東軍の行動を絶賛し、世論は満州事変賛成へと動いてゆく。

そんな中、後に首相となる林銑十郎朝鮮軍司令官は関東軍救援を名目にこれまた本国からの連絡を待たずに独断で満州へ侵攻してしまう。関東軍も不拡大方針を無視し錦州を独断で爆撃。これにより今まで沈黙していたアメリカイギリスが非難声明を出すこととなる。若槻の不拡大方針は国民、軍部に見放され、ついには安達謙蔵内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で閣内不一致総辞職となる。

これにより「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。

高校、東京帝大のときの試験の成績の平均点は98点。この成績は東大始まって以来最高であり、現在も破られずにいる。戦後、東京裁判に証人として出廷し満州事変について証言している。

[編集] 栄典

[編集] 関連項目


<tr><td style="text-align: center;width: 33%;background:rgb(233,233,233)" colspan="2">第27代</br>浜口雄幸</td> <td style="border: 1px solid gray;text-align: center; width: 34%;background:rgb(249,249,249)" colspan="2">第28代</br>1931年</td> <td style="text-align: center;width: 33%;background:rgb(233,233,233)" colspan="2">第29代</br>犬養毅</th> </tr> <tr><td style="font-size: 80%" valign="top" width="16%"> 伊藤博文</br>黑田清隆</br>山縣有朋</br>松方正義</br>大隈重信</br>桂太郎</br>西園寺公望</br>山本權兵衞</br>寺内正毅</br>原敬 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 高橋是清</br>加藤友三郎</br>清浦奎吾</br>加藤高明</br>若槻禮次郎</br>田中義一</br>濱口雄幸</br>犬養毅</br>齋藤實</br>岡田啓介 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 廣田弘毅</br>林銑十郎</br>近衛文麿</br>平沼騏一郎</br>阿部信行</br>米内光政</br>東條英機</br>小磯國昭</br>鈴木貫太郎</br>東久邇宮稔彦王 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 幣原喜重郎</br>吉田茂</br>片山哲</br>芦田均</br>鳩山一郎</br>石橋湛山</br>岸信介</br>池田勇人</br>佐藤榮作</br>田中角榮 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 三木武夫</br>福田赳夫</br>大平正芳</br>鈴木善幸</br>中曾根康弘</br>竹下登</br>宇野宗佑</br>海部俊樹</br>宮澤喜一</br>細川護熙 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="16%"> 羽田孜</br>村山富市</br>橋本龍太郎</br>小渕恵三</br>森喜朗</br>小泉純一郎</br>安倍晋三 </td></tr> </table>
           内閣総理大臣           
第24代</br>加藤高明 25代</br>1926年 - 1927年 第26代</br>田中義一
先代:</dt>
水野錬太郎
-</dd>
内務大臣</dt>
第41代:1924年 - 1926年
第42代:1926年(兼任)</dd>
次代:</dt>
-
濱口雄幸</dd>
先代:</dt>
山本達雄
高橋是清</dd>
大蔵大臣</dt>
第16代:1912年 - 1913年
第18代:1914年 - 1915年</dd>
次代:</dt>
高橋是清
武富時敏</dd>
先代:</dt>
原脩次郎</dd>
拓務大臣</dt>
第4代:1931年(兼任)</dd>
次代:</dt>
秦豊助</dd>

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB