芥川龍之介

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芥川龍之介
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芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年3月1日 - 1927年7月24日)は、日本小説家作家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。

目次

[編集] 家族

妻は海軍少佐・塚本能五郎の娘、俳優芥川比呂志は長男、作曲家芥川也寸志は三男(次男の芥川多加志は戦死)。ナレーター芥川隆行は遠戚。

[編集] 来歴・人物

その作品の多くは短編で、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などの古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」など、童話も書いた。

1927年7月24日未明、友人にあてた遺書に「ただぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。35歳という若すぎる死であった。のちに、芥川の業績を記念して芥川龍之介賞が設けられた。

[編集] 出生

東京市京橋区入船町8丁目に牛乳屋を営む新原敏三 フクの長男として生まれる。生後7ヵ月後ごろに母が発狂したため、母の実家である芥川家に預けられ伯母に養育される。11歳の時に母が亡くなったため、翌年叔父の芥川道章の養子となり芥川姓を名乗ることになった。芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。

なお、龍之介の名前は、かれが年・月・日・の刻に生まれたことに由来すると言われている。しかし、誕生日の1892年3月1日は干支暦では壬辰年壬寅月壬辰日に当たる。出生時刻については資料がないため不明。

[編集] 経歴

1919年の集合写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は菊池寛

江東尋常小学校、府立第三中学校第一高等学校東京帝国大学英文科と進学。

東京帝国大学文学部英文学科在学中の1914年菊池寛久米正雄らとともに同人誌新思潮』(第三次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介とかかれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスイエーツの和訳を寄稿したのち、同誌上に処女小説「老年」を発表。作家活動の始まりとなった。1915年代表作のひとつとなる「羅生門」を『帝国文学』に発表、級友の紹介で夏目漱石門下に入る。1916年には第4次『新思潮』(メンバーは第3次とほぼ同じ)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。この年東大英文科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。

1916年12月より海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執るかたわら創作に励み、翌年初の短編集『羅生門』を刊行する。

1918年3月教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年、同じように朝日新聞社に入社している。

1919年3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘である塚本文(つかもと ふみ)と結婚。1921年2月、大阪毎日海外視察員として中国を訪れ、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文をあらわした。この旅行後から次第に心身衰えはじめ、神経衰弱、腸カタルなどを病み、1923年には湯河原町へ湯治に赴く。作品数は減ってゆくが、このころからいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへとつながっていく。

1926年胃潰瘍神経衰弱不眠症が高じて再び湯河原で療養。1927年1月、義兄の西川豊が放火の嫌疑をかけられて自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と文学史上有名な論争を繰り広げる。このなかで芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。

そして7月24日未明、「続西方の人」を書き上げたのち致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している(文芸春秋社『藪の中の家』より)。

[編集] 作品の特徴

芥川龍之介の作品は、多く短篇小説が知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(「バルタザアル」など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。

芥川龍之介は、主に短編小説を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物にする事は出来なかった(未完小説として「邪宗門」「路上」がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したと言われる。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に「蜃気楼」が挙げられる)。

杜子春」など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』に発表されたものなどの、児童向け作品も多い。一般的にはキリシタン物や平安朝を舞台とした王朝物などに分類される。また、古典(説話文学)からヒントを得た作品も多い。たとえば、「羅生門」や「」、「芋粥」などは『今昔物語集』を、「地獄変」などは『宇治拾遺物語』を題材としている。またアフォリズムの制作も得意としており、漢文などにも通じていた。

[編集] 作品の変遷

芥川龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うと言われる。これは、多くの作風を試みた事を表しており、多くの支持者を持つ要因の一つでもあろう。

[編集] 初期

初期の作品では、説話文学を典拠とした「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物、加えてキリシタン物が有名である。日夏耿之介は初期の作品を「非常によい」と評価している。歴史物では、人間の内面、特にエゴイズムを描き出したものが多い。

[編集] 中期

中期には芸術至上主義的な面が全面に出た「地獄変」などを書いている。中期には長編「邪宗門」に挑んだりしている。一見、有名な作品を書いているように見えるが、後世の文学者はあまり中期の芥川文学を評価していない。

[編集] 晩年

晩年は自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。「一塊の土」など、これまでと比べ現代を描くようになるが、台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる。このころから告白的自伝を書き始める(「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」など)。晩年の代表作「河童」は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人びとに問題を提起した。

[編集] 自殺

1927年7月24日、田端の自室で雨の降りしきるなか、芥川龍之介は服毒自殺をおこない、社会に衝撃を与えた。使用した薬品については、ベロナールとジェノアルとする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。一方で、自殺の直前には身辺の者に自殺を仄めかす言動を多く残しており、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために手遅れになったとする説もある。遺書として妻に宛てた手紙、菊池寛小穴隆一に宛てた手紙がある。自殺の動機について芥川は、「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と記している。命日は小説「河童」から取って河童忌と称される。

死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため、上野に出かけており留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。また、死の直前に

「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひびきすなはち見ゆる禿の頭」

と河童に関する作を残した。

死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで、続いている。

龍之介が服毒自殺にてこの世を去った1927年7月24日の朝、夫人は「お父さん、良かったですね」とかれに語りかけたという。

[編集] その他

  • かつて自分の名を「之介」と表記していたこともあった。少年時代のある時期には「龍之」と表記していて、一高・東大の卒業名簿も「助」となっている。中学二年ごろから戸籍どおり「介」と自称するようになるが、それからは「助」と誤記されるのを非常に嫌がった。あるときファンレターの宛名に「龍之」と書いてあるのに憤って「度し難い輩(やから)だ」などと呟いたことがあった。また没後、遺体を火葬するカマドの名札がやはり「助」で、友人の一人が「仏が気にしますから」と改めさせたという。
  • 晩年、「文芸的な、余りに文芸的な」で『新思潮』の先輩・谷崎潤一郎と対決し、「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想した。
  • 黒澤明の『羅生門』(日本映画初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞)は芥川の「藪の中」「羅生門」から題材を借りている。
  • 「歯車」の内容から、晩年には自分自身のドッペルゲンガー(※ Doppelgängerのgänger)を見たのではないか、また、偏頭痛あるいはその前兆症状である閃輝暗点を患っていたのではないか、という説がある。
  • 笑顔の写真がほとんど存在しない事で有名であるが、晩年のフィルム映像では、息子たちと共に笑顔を見せる芥川の姿が記録されている。なお、この映像では比呂志と多加志は映っているが、也寸志はこの時家の中で寝ていたため映っていない。
  • 三男也寸志の回想によれば、父の遺品にはSPレコードがあり、そのうち多くを占めていたのはストラヴィンスキーだったという。『火の鳥』(組曲版)と『ペトルーシュカ』を所有していたらしいが、演奏者などの詳細は不明である。
  • 中国の北京を訪れた折胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合った。
  • 師・夏目漱石の葬儀の際に受付を務め、弔問に来た森鴎外の名刺を受け取っている。
  • 子供の名前は、それぞれ親友の菊池寛の「寛」(長男:比呂志)、小穴隆一の「隆」(次男:多加志)、恒藤恭の「恭」(三男:也寸志)をもらって漢字を替えて名づけたもの。友情に厚かった芥川の人柄が偲ばれる。
  • 子煩悩であったという。
  • 数学のできない者には、良い小説は書けないと発言している。

[編集] 主な著作

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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