色丹島
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色丹島(しこたんとう、ロシア語地名シコタン島 (Остров Шикотан))は、北海道の根室半島の東に、南クリリスク海峡をはさんで国後島とほぼ平行し、歯舞諸島とつながって存在する島。1945年9月に、ソ連軍が侵攻して以来、日本の施政権は及んでおらず、現在までロシア連邦の実効支配下にある。ロシアの行政区分では国後島に本庁があるサハリン州南クリル管区に属する。戦後ロシアが、歯舞諸島とあわせて「小千島列島」 (マラヤ・クリルスカヤ・グリャダМалая Курильская гряда) と呼ぶようになった列島で最大の島で、面積は255.12km²ある。
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
日本政府が返還を要求している北方諸島の1つであり、日本の行政区分では、千島国ならびに北海道根室支庁の色丹郡色丹村に所属することになっている。北方領土問題で「二島返還論」というときの二島とは、色丹島と歯舞諸島のことであり、その合計面積は北方諸島全体の7パーセントにすぎない。とはいえ、1956年の日ソ共同宣言によりソ連が日本への引渡しを認め、これは現在のロシア連邦政府も有効としているため、日本が二島返還による日露平和条約締結へと方針を転換さえすれば、日本に実際に返還される可能性が高い。
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[編集] 概要
413mの斜古丹山を中心に島全体が比較的なだらかな山地・丘陵になっており、カラマツの近縁種であるグイマツや、ウルップソウなどの高山植物に恵まれた自然の宝庫でもある。第二次世界大戦前最後にあたる1940年の国勢調査では、1,499人が住んでいた。村役場が置かれた場所は北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓、郵便取扱所も設けられ、斜古丹という名の集落をなしていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブ・サケなどの漁業が主産業であった。
ソ連が実効支配を始めてからも、中心集落は斜古丹(ロシア語地名、マロークリリスク (Малокурильск=「小千島の町」の意)である。2006年の人口は2,244人。現在の集落はもうひとつ、その西側の入江奥深くに穴澗(クラバザヴォーツク (Крабозаводск=「カニ工場の町」の意)があり、2006年の人口は925人。それ以外の日本時代の集落は、すべて廃村となった。
[編集] 産業
漁業が主で、択捉島で大きく成功したギデロストロイ社が水産加工施設を設置している。また、日本本土と近いことから、国境経済が成長するポテンシャルはあり、ソ連崩壊直後の1992年には、楊文虎という日本に居住している香港中国人企業家がサハリン州政府から50年の期限でこの島の土地278haを租借し、主に日本人向けのカジノリゾートを作ろうとした。だが、日本政府がこの計画を進めた香港の企業カールソン・アンド・カプラン社に計画中止を求めたことなどから、この企業家は結局撤退した。
また、ロシアにとっては国境最前線の島という認識があるため、斜古丹には国境警備隊の大きな軍港があり、穴澗には拿捕された日本漁船員の収容所が設けられている。
[編集] 交通アクセス
空港は無いので船のみのアクセスとなる。樺太(サハリン)の大泊(コルサコフ)港から、3月から12月まで週2便、サハリンクリル海運の船が結んでいる。ロシアのビザと色丹島に有効な通行許可証があれば、日本人はじめ外国人の乗船もできる。港は深いので、国後島や択捉島と異なり、船は艀なしで直接港に横付けとなる。日本のビザなし交流団は、根室港からアクセスしている。
[編集] 千島アイヌの強制移住
明治10年代に、樺太と交換で日本が中千島・北千島を領有するようになって以来、占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に長く居住していた先住民の千島アイヌ(クリル人)の人々が色丹島に強制移住させられた。これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が狩猟民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
千島居住時代にロシア正教会から派遣された宣教師による伝道でハリスチャニン(ロシア正教信者)となっていた千島アイヌの人々ために、日本ハリストス正教会は司祭や伝教者(伝道師)を送った。明治時代に日本ハリストス正教会の伝教者だった斎藤東吉が色丹の千島アイヌの信者から聞いた話によると、日本正教会からの司祭が初めて到着した時、はじめに上陸した根室教会管轄司祭の小松神父を、根室の学校に通っていて教会を訪れたことのある子どもが正教の神父であると大人の信者たちに教えたが、小松師が和服姿であったために大人たちは正教の司祭とは信じられず日本人の回し者であろうと怪しんだという。しかしながら、後から陸に上がった沢辺悌太郎伝教者(沢辺琢磨の息子、後に司祭に叙聖される)がロシア語で、根室正教会の小松師による巡視であることを伝え、また、小松師がニコライ主教からの証明書を提示するに至って、ようやく彼らは正教会神品の来訪であることを理解し、歓喜の声を上げて降福を受け、また機密に与ったという。そして、これが色丹島の聖三者教会の始まりとなった。その後、羅処和島生まれの千島アイヌ首長ヤコフ・ストロゾフは自らの手で新しい教会堂を建て、信者たちは篤実な信仰生活を続けた。
現在、当然のことながら往時の聖三者教会は消滅し、また司祭を送った根室正教会も衰退してしまったが、聖三者教会に納められていたイコン(聖像)の一部が中標津郊外の上武佐ハリストス正教会に受け継がれていて、千島アイヌの人々が守り続けた正教信仰の灯火を今に伝えている。

