船岡山合戦

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船岡山の戦い から転送)

船岡山合戦ふなおかやまがっせん)とは、1511年足利義材を擁立する細川高国大内義興足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた、室町幕府の政権をめぐる戦いのこと。応仁の乱の際に船岡山をめぐりおこった戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。


目次

[編集] 開戦までの経緯

 将軍義澄のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元の死後、その後継を巡り政元の養子同士での権力争いが発生したが、その混乱に乗じ、京への復活をもくろんだ前将軍義材が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛。これに高国が呼応し、将軍義澄とそれを担ぐ澄元は近江に逃亡した。義澄・澄元は畿内の諸勢力を糾合し反撃し京を奪還し、義稙達は丹波に逃亡したものの次第に勢力を盛り返し、京に再度迫りつつあった。

[編集] 戦いの状況

 開戦の直前、義澄の擁護者であった六角高頼が義稙方に寝返り、盟主である義澄が失意のうちに病死するという大事件が起きたが、澄元達の戦意はなおも衰えず、澄元方の細川政賢が丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。しかし、西国の名将達を傘下におさめる義稙方の大内軍が夜襲をしかけると、政賢は戦死するなど澄元方は総崩れとなり、京は再び義稙の手に帰した。

[編集] 戦後の影響

 戦いに勝利した義材が義稙と改名して将軍に復職し、細川高国・大内義興の連合政権が成立した。戦いに敗れた澄元は逃亡し再起を図り、一時京の回復に成功したものの結局没落していった。一方で、勝者である義興も長期間在京する間に出雲尼子氏安芸武田氏などが不穏な動きを見せはじめ、さらに旗下の国人達の離反が続出したので、1518年、周防に帰国し、以後勢力の回復に忙殺され再び上洛することなく1529年に病没した。残された高国はやがて将軍義稙と対立し、1521年、義稙を追放し義澄の子の足利義晴を将軍として擁立するものの、今度は澄元の子細川晴元と対立し、1531年天王寺の戦いで敗れて自身が没落することになる。

[編集] 主な参加人物

義稙方の将

義澄方の将

[編集] 関連

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