興世王

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興世王(おきよおう、生年不詳-天慶4年(940年))は平安時代中期の皇族桓武天皇の第三皇子伊予親王の四世子孫という説があるが、信用できない。諸国の受領を歴任していたと思われるが、詳細は不明。承平天慶の乱首謀者の一人。

承平8年(938年)、武蔵権守として赴任。武蔵経基王と共に赴任早々に検注を実施する。しかし、足立郡郡司武蔵武芝は武蔵では正官の国司赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから、検注を拒否した。これに対し、興世王と経基王は兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。武芝は逃走し、一族の抗争で武名が高かった平将門を頼った。将門は興世王、経基王と武芝を会見させて和解を斡旋する。酒宴の最中に経基王の営所が武芝の兵に囲まれた。生命の危険を感じた経基王は慌てて京へ逃げ帰り、興世王と武芝と将門が共謀して謀反を計っていると訴えた。興世王、将門、武芝は他国国司の証言もあり、無実が証明され、経基王は誣告罪で左衛門府に拘禁された。

しかし、同年5月に正任国司百済王貞連が赴任すると事態が一転する。興世王は貞連と不仲で、やがて任地を離れて将門の下に身を寄せる。翌年、常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾が対立し、玄明に助力した将門は常陸国府を襲撃する。国府を占領した将門は印璽を奪い、維幾を京へ追い返した。将門の側近となっていた興世王は将門に一国討つも八国討つも朝敵としての咎めは同じ、ならば八国を討って割拠をすべきと将門に勧めた。将門はこの言に乗り、下野国上野国の国府を占領して承平天慶の乱を起こす。上野国府で新皇を名乗った将門は独自に除目を行い、興世王は上総介に任命される。翌天慶3年(940年)に経基王は放免、復権し、将門追討が開始される。2月14日に合戦で将門が討ち死にすると、将門の勢力は一気に瓦解して首謀者は次々と討たれた。興世王も上総で平公雅に討たれた。

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