美智子 (皇室)
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左:天皇明仁
右:皇后美智子
右:皇后美智子
皇后 美智子(こうごう みちこ、旧名:正田 美智子(しょうだ みちこ)、1934年(昭和9年)10月20日 - )とは、日本の皇族。身位は今上天皇(明仁)の皇后。お印は白樺。3人の子があり、それぞれ浩宮徳仁親王(現・皇太子)、礼宮文仁親王(現・秋篠宮)、紀宮清子内親王(現・黒田清子)。
報道等で使われる敬称は、「陛下」もしくは「さま」。NHKでは「皇后陛下」もしくは「皇后さま」、民放各社では「美智子さま」と呼ぶ場合もある。
目次 |
[編集] 略歴
- 1934年(昭和9年)、当時日清製粉の社長であった正田英三郎・富美子夫妻の長女として、東京で誕生。
- 雙葉学園幼稚園を経て、1941年(昭和16年)雙葉学園小学校に入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県の乃木高等女学校附属小学校(現湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現館林市立第二小学校)、長野県の軽井沢東国民学校と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、文京区の俵孝太郎の旧居に、一時、在住したこともある。
- 1947年(昭和22年)3月、雙葉学園小学校卒業。
- 1950年(昭和25年)3月、聖心女子学院中等科卒業。
- 1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科卒業。
- 1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)卒業。卒業式では、総代として、答辞を読んだ。大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。
- 同年8月、軽井沢で開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会った。テニスコートの出会いとして知られる。
- 1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」の第一回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行した。
- 同年11月27日、宮内庁は皇室会議が正田美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表し、ミッチー・ブームが起こる。
- 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間(士族以下)出身の皇太子妃となる。
- 1960年(昭和35年)2月23日、第一子徳仁親王誕生。
- 同年9月22日~10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、徳仁親王は出生後7ヶ月となっていたが伴わず、近臣に躾の方針を示した手記を与えて養育を委ねた。
- 1963年(昭和38年)、第二子懐妊が報じられたが胞状奇胎となり流産し、その折体調を崩し静養した。
- 1965年(昭和40年)11月30日礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)誕生。
- 1969年(昭和44年)4月18日紀宮清子内親王(現:黒田清子)誕生。
- 1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「お互いに点数を付けるとすると?」との質問に対し、明仁親王は「努力賞を」、美智子妃は「感謝状を」と答える。
- 1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米・訪韓は中止となった。
- 1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の天皇即位に伴い皇后即位。即位後の記者会見においては皇太子となり東宮御所に独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
- 1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れ、失声症となった。1994年(平成6年)回復。
- 1994年(平成6年)還暦を迎える。還暦記者会見においては、皇室の時代による変化の尺度を判断するのは皇位継承に連なる人々であり、配偶者や家族であってはならない、という趣旨の発言を行った。
- 1995年(平成7年)1月31日、阪神淡路大震災後の神戸を見舞い、長田区の菅原市場に皇居から持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって保存処置が取られ、現存している。
- 1998年(平成10年)長野冬季オリンピックを観戦。そのとき観客席から巻き起こったウェーブに参加した。
- 同年、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。
- 2002年(平成14年)、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べる
- 2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということや、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。
- 2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。
[編集] 外遊歴(平成以降、単独のもののみ)
- 2002年(平成14年)9月28日~10月3日、スイス旅行。
- 国際児童図書評議会(IBBY)、スイス・バーゼル=シュタット準州州政府からの招待により、同準州州都バーゼルで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に出席のため。
[編集] エピソード
- 民放各社が「美智子さま」と呼ぶのは、初めての民間出身の皇族であるため軽んじているのではないか、という批判的な見方がある。もっとも今上天皇が独身の皇太子だった時代、テレビのインタビューで「皇太子さん」と呼ばれていたこともあるほどで、呼び方も時代により変化して当然との見方もある。
- 非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代はリレーの選手などに選ばれることが多かった。このころは勝気な性格であったと伝わる。孫である眞子内親王、佳子内親王にも、この性格が受け継がれていると思われる事例が伝えられている。
- 学生時代に学校において出会ったアイルランドの修道女たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。
- 皇室に嫁ぐ際には実家の庭に白樺の苗を植え「これを私の身代わりにしてください」と言った。このとき父正田英三郎から、「天皇陛下と皇太子殿下の御心に沿って生きるように」との言葉を贈られている。
- 成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲は後に紀宮清子内親王が降嫁する際、皇居から出発する内親王を送るためにも演奏された。
- 結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年(昭和30年)に、刀剣では最初の重要無形文化財(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も同氏の作である。
- 晴れがましいご成婚のパレード、民間での祝福ムードとは対照的に、成婚後の数年は民間出身ということもあって他の皇族に受け入れられず(梨本宮妃伊都子など、日記などに入内を非難する記述を書き残した皇族もいる)一挙手一投足ごとに非難され、また世界各国にて王家が革命で打倒されていた当時、左翼の全盛時代であった60年代を目前にした時代もあって苦難の日々が続いたが、夫妻はいずれも苦情を口にすることはなかった。皇太子妃当時の美智子妃は側近の黒木侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語った。
- そうした苦しい中にあっても優しさを忘れず、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、東宮御所に厨房を設けた。後には礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの弁当もこの厨房で自ら作ったこともあるという。
- 礼宮文仁親王、紀宮清子内親王は結婚に反対した高松宮妃や秩父宮妃とも関係が深く、美智子妃と諸皇族との橋渡しをすることとなった。特に清子内親王は平成期に入って長・次兄が独立して以降、両親の傍らにあってよき相談役であったと言われている。
- 従来の皇室の慣習であった宮中の御産殿での出産、乳母制度や傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされるなど、全く一般の国民同様の育てられ方であった。もっとも、後に誕生した礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)幾分、かつての皇族の慣例に立ち戻っており、母子手帳の発給を受けることはなかった。
- 第2子流産の折には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」といった批判もあった。この痛手から回復する過程において、ハンセン病患者や戦争の犠牲者への理解、慰めの心を深めたといわれる。
- 常に今上天皇行幸の際には付き従い、行動を共にしている。そのときの服装は訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。
- 1986年(昭和61年)3月の子宮筋腫の手術の際も明仁親王の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断はぎりぎりまで下されなかった。退院の際、明仁親王の胸に顔をうずめる姿が放映された。
- 公務中、今上天皇に暴漢が凶器を投じた際、とっさに片手を挙げて天皇をかばうなど、天皇を常に気遣っている。
- 皇后即位後に、一部週刊誌のバッシングにより失語症に追い込まれた。翌年回復した際の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイされました」であり、周囲を気遣う皇后の心遣いが現れたものであった。この件をはじめ、平成期に入って体調を崩すことが増えている。
- 歴代皇后が代々行ってきた養蚕を継承している。御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきた蚕の品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至っている。
- 宮内庁職員組合文化祭には白樺美智子の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある(その時、紀宮清子内親王も川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ子)の名前で出品している)。
- 学生時代よりピアノを得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。このほかハープも得意とされる。ハープを演奏する写真も撮影されている。
- 国民に開かれた皇室の発想者といわれているが、数々の発言に見られるように伝統を守ることを大切にしている。
- 近年において、同じく皇族・華族以外の出身者で1990年文仁親王とのご成婚によって入内、皇族に上った秋篠宮妃紀子にはそれまでの自分の経験を話し、アドバイスをしていると言われている。
- 自らもピアノを演奏することもあってか、ピアニストの田中希代子の演奏を愛した。1996年に田中が早世したときには深い悲しみを表した。
- 特徴ある活動としては、図書普及への取り組みがあげられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」では、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年(平成14年)には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身海外に行啓した史上最初の例である。
- 1999年、父正田英三郎の死去に伴い、実家の池田山の正田邸が相続の対象になったときには、遺産相続権を放棄した。正田邸は物納され、取り壊された。この一件に関しては地元住民の間で正田邸の保存を望む声も起こり、邸の前に市民団体が詰め掛けるなど大きな騒動になった。
- 2005年からの戦没者慰霊の旅においては各地で和歌を詠んでいる。特筆すべきはサイパン島において詠まれた「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし」、硫黄島にて詠まれた「銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき」の二首である。「かなしき」は硫黄島の防衛を指揮して壮烈な最期を遂げ、敵軍からも「栗林は出会った敵のうち最も勇敢だった」と称えられた栗林忠道中将の辞世の本来の結句であり、中将の最後の思いに思いを馳せていたことが思われる。
- 2006年2月に秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮夫妻が天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇と夫妻への思いを語ったとされる。
- 秋篠宮妃紀子が悠仁親王を妊娠中、前置胎盤で帝王切開が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。
[編集] 発言
- 「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方」(1958年11月27日、婚約記者会見でどういう所に魅力を感じたかを訊かれての皇太子評。流行語にもなった。)
- 「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」(1994年、失語症から回復した際発表されたコメントにて)
- 「私のせいで(観客によるウェーブを)とめてはならないと思い陛下のお許しを得て、致しました」(1998年、長野オリンピックでウェーブに参加した際のコメント)
- 「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした」(2005年10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見にて)
[編集] 家族
- 祖父 正田貞一郎(実業家・日清製粉創業者)
- 祖父 副島綱雄(実業家)
- 父 英三郎(実業家・日清製粉名誉会長)
- 母 富美子(副島綱雄長女)
- 兄 巌(元日本銀行監事)
- 弟 修(実業家・日清製粉代表取締役会長)
[編集] 文献
- 著書
- 『ともしび : 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月
- 『五木の子守唄 : 鮫島有美子』Denon、1992年(作詞した『ねむの木の子守歌』が記載)
- 『愛のゆりかご : 日本の子守歌』中目徹編、東亜音楽社、1995年
- 『瀬音 : 皇后陛下御歌集』大東出版社、1997年4月、ISBN 4500006338
- 『道 : 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月、ISBN 414080467X
- 『あゆみ : 皇后陛下お言葉集』海竜社、2005年10月、ISBN 4759309004
- 関連文献
- 『皇太子同妃両殿下ご結婚二十年記念写真集』皇太子写真集刊行委員会編、時事通信社、1978年10月
[編集] 関連項目
- 明仁
- 皇后
- 平成
- 宮内庁
- バラ:イギリスのディクソン社から「プリンセス・ミチコ」というバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。他に「エンプレス・ミチコ」というバラが皇后即位後献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンダの品種として優れており「皇后さまのバラ」と言えばこちらを指すのが一般的。
- 絵本
- 祝典行進曲
- プリンセス・ミチコ
[編集] 外部リンク
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