置塩章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
置塩 章 (おじお あきら、 明治14年(1881年)2月6日- 昭和40年(1965年)) は大正~昭和初期に関西で活躍した建築家。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。
目次 |
[編集] 経歴
明治14年(1881年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県に生まれる。明治43年(1910年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、陸軍省に入る。第四師団(大阪市)に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。その後大阪砲兵工廠の勤務となる。大正9年(1920年)都市計画法施行に伴い、技師増強のため兵庫県庁に移り、都市計画委員会技師、内務部営繕課長等を歴任し、県会議事堂、警察署、学校など多くの施設を指導する。昭和3年(1928年)置塩建築事務所を開設し、神戸を拠点に、全国からの設計依頼に応えた。
[編集] 主な作品
- 大阪砲兵工廠化学分析場 (1919年、大阪市中央区)
- 兵庫県会議事堂 (1922年、現存しない)
- 兵庫県信用組合連合会事務所 (1929年、神戸市中央区、現・駐神戸大韓民国総領事館)
- 茨城県庁舎 (1930年、水戸市)
- 鳥取県立図書館 (1930年、鳥取市、1995年外観復元後「わらべ館」)
- 宮崎県庁舎 (1931年、宮崎市)
- 旧国立生糸検査所 (1932年、神戸市中央区)
- 日本赤十字社静岡病院 (1933年、現存しない)
- 加古川市公会堂 (1935年、加古川市、現・加古川市立図書館)
[編集] エピソード
彼は、大の歴史好きであった。陸軍第四師団技師時代の大正2年(1913年)1月、陸軍被服廠倉庫の建設時に、地下約9尺(約2.7メートル)の地点に古瓦包含層を発見し、そこから蓮華文・重圏文の古瓦を掘り出し、そのあたりに難波宮が必ずあると確信する。その当時、「このまま70の年までは建築家でとおし、そのあと考古学を勉強して、きっとこの瓦にものをいわせてみせる」と思ったそうである。
そして、後に難波宮大極殿跡を発見することになる山根徳太郎(当時、大阪市民博物館に在籍)にそれらの古瓦を見せたことが、後の難波宮の大発見につながった。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 建築関連のスタブ項目 | 日本の建築家 | 1881年生 | 1965年没

