織田長益
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
織田 長益(おだ ながます、天文16年(1547年) - 元和7年12月13日(1622年1月24日))は、織田信長の実弟で、安土桃山時代から江戸時代初期の大名茶人。
織田信秀の第11子で、通称は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では織田有楽、織田有楽斎と呼ばれることが多い。
千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
目次 |
[編集] 生涯
長益は信長の実弟の一人であるが、信長とは年齢の離れた弟であり、青年時代の信長が尾張国の一部を領する戦国大名から畿内を制するに至る時期の事歴はあまりわかっていない。1570年代頃から織田信長の長男信忠の旗下にあり、1582年の本能寺の変の時は、信忠とともに京都の二条城にいた。衆寡敵せず、「自害する」と言い放ったが、長益の進言に従って信忠が最終的に自害したのに対し、気が変わったのか城を脱出。奇跡的に近江安土へ逃れ、さらに岐阜へ逃れて事なきを得た。しかし、この時のことを、京の民衆たちには、「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られている。
本能寺の変後は尾張国に戻って信長の次男織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いの後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590)の織田信雄の改易後、豊臣秀吉に仕えて摂津国味舌に2000石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では長男長孝とともに東軍に属して戦功を挙げ、大和国で3万石を与えられた。しかし、戦後も大坂城の豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄信包らの肖像画も伝わっている。
大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。一説には、幕府の間者であったともいう。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。
大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615)8月、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年12月13日京都で死去、75歳。
[編集] 子孫
正室は平手政秀の娘。子女には長男長孝・次男頼長(嫡子)・三男俊長・四男長政・五男尚長・六男宥諌(僧侶)ら六男三女を確認できる。
庶長子長孝は関ヶ原の合戦において父とともに東軍として参加して戦功をあげ、1万石を与えられて大名に取り立てられ(野村藩)、事実上、幕府から分家を認められた。嫡子頼長は父とともに関ヶ原の合戦後も豊臣秀頼に仕えた。また、父の創始した茶道有楽流を継いだ。
四男長政と五男尚長は1615年に父が隠棲した際に、長益が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。長政が戒重藩、尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。なお、長益自身が隠居料として取った1万石は長益の死とともに収公されている。
[編集] 有楽町
東京都千代田区有楽町という町名は、有楽が同地に居住していたことに由来するという説があるが、有楽が江戸に住んだという記録はない。大阪にはかつて、有楽が居住したといわれる場所に有楽町が存在した。大阪の有楽町は、現在の大阪市西成区天下茶屋付近であったが、戦後の度重なる区画整理などによって消滅した。
[編集] 関連項目

