織田政権

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織田政権(おだせいけん)とは、天正元年(1573年)(実質的には永禄11年(1568年))から天正10年(1582年)まで成立した日本の武家政権

目次

[編集] 略史

[編集] 政権確立の経緯

永禄3年(1560年)に織田信長今川義元桶狭間の戦いで破ると、その勢いをもって美濃を制覇し、永禄11年には前将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛することに成功し、それまで京都にて政権を確立していた三好・松永政権を追放・屈服させることに成功した。これにより、信長は足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立し、自らはその後見人として政権を確立したのである。

その後、信長は伊勢北畠具教河内三好義継大和松永久秀ら、畿内における諸大名をことごとく支配下に置き、畿内に一大勢力圏を築くに至ったのである。

[編集] 政権の危機

しかし、信長の傀儡でしかなかった義昭は、やがてその立場に不満を持つ。そして、信長が義昭の行動を制限する「殿中御掟」を成立させると、両者の対立は決定的なものとなり、義昭は甲斐武田信玄安芸毛利輝元近江浅井長政越前朝倉義景摂津石山本願寺などに信長追討令を下し、信長包囲網を結成した。これに対して信長は、姉川の戦い比叡山延暦寺の焼き討ちなど、敵対勢力をことごとく破ったが、強敵・武田信玄の前に三方ヶ原の戦いで織田軍が大敗すると、さすがの信長も危機に陥った。

しかし幸運にも元亀4年(1573年)4月、上洛半ばにして武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。信長はこの好機を見逃さず、直ちに軍勢を率いて京都に上洛し、将軍・義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼした。これにより、畿内に織田政権が完全に確立したのである。その後、信長は勢いに乗って浅井長政、朝倉義景、三好義継ら敵対勢力をことごとく滅ぼし、畿内周辺を完全に勢力圏に治めたのであった。

[編集] 勢力拡大

天正2年(1574年)に伊勢の長島一向一揆を鎮圧した信長は、翌年には長篠の戦いにおいて信玄の後継者である武田勝頼率いる武田軍を巧みな鉄砲戦術でもって討ち滅ぼした。さらに同年には越前・加賀で信長を悩ませていた一向宗徒を虐殺し、同地を支配下に置くに至った。

しかし信玄没後、信長にとって最大の強敵となっていた上杉謙信が天正4年(1576年)に石山本願寺と講和して信長との同盟を破棄し、翌年には柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで粉砕するなどした。これに乗じて大和の松永久秀、石山本願寺、安芸の毛利輝元、甲斐の武田勝頼らが一斉に反信長として動き出したため、再び信長は包囲網に取り囲まれることとなり、危機に陥った。しかし、その謙信が天正6年(1578年)3月に急死すると、信長はまたもそれに乗じて、反信長勢力をことごとく打ち破ってゆく。また、上杉氏も謙信没後は養子の上杉景勝が継いだが、景勝は信長の敵ではなく、また御館の乱という御家騒動から勢力が減退したため、謙信死去により、信長の天下布武はさらに前進したといえる。

[編集] 政権崩壊へ

天正10年(1582年)に武田氏を滅ぼしたことから、織田氏の勢力は紀伊を除く畿内から東海甲信、越後を除く北陸地域から、中国東部、四国の一部という強大な勢力に伸張していた。この頃が、まさに織田政権の絶頂期と言えるのである。また、九州大友氏関東北条氏東北伊達氏などは信長に恭順する姿勢をみせており、このまま順調に行けば、織田政権による天下統一はほぼ達成されると見られていた。

その後、信長が家臣の明智光秀の謀反により、本能寺にて自害(本能寺の変)。このとき、嫡男の織田信忠二条城にて自害してしまったため、織田氏には政権を運営できる人物が消えることとなった。つまりこの時点で、織田政権は完全に崩壊したのである。

その後、織田氏の家督は信長の嫡孫・織田秀信が継いだが、秀信は羽柴秀吉の傀儡に過ぎず、また清洲会議により、信長の旧領はことごとく織田家臣団によって分割相続されたため、織田政権、というより織田氏自体が、政権から単なる一大名に転落してしまったのである。

[編集] 政権の性格

織田政権は、日本を統一していた政権ではない。そのため、その政権機構は他の戦国大名と同質で、規模が大きかったにすぎないとの意見もある。その一方、後述するように、重臣クラスが他の戦国大名に匹敵する勢力をもち、それらを統一的に支配していたことで、近世的な統一政権の性質をもつとの意見もある。いずれにせよ、これらは今後も議論の余地がある。

織田政権は、信長という一個人に大きく依拠するところが大きい政権であった。そのため、信長死去により政権は崩壊し、織田氏も信長死没から数年後には、歴史の表舞台で名を聞くことも無くなるほど小さな存在となってしまったと言えるのである(この没落の原因には、後述のように、信長の死より信忠の死が大きいとの異説もある)。

なお、信長は幕府を開いて、全国の諸大名の盟主(つまり征夷大将軍)として織田幕府を開くつもりは無かったと言われている。朝廷は信長に対して、征夷大将軍に就任することを早くから認めていたが、信長はそれを拒否し続けている。また、信長が天正6年4月の時点で右大臣を辞任し、以後は官職を受けようとしなかったことから、信長は朝廷から政治を委任されて幕府を開くのではなく、朝廷から独立した日本国の元首となり、西洋絶対君主のような中央集権化を目指していたのではないかと言われている。現に、信長存命中に外様大名として所領安堵されたのは宇喜多直家や北条氏直などの一部に過ぎず、武田氏や浅井・朝倉氏などは武力によってことごとく滅ぼされて、その後に信長の直臣がその領地に入っていることが、その証左といえる。後に江戸幕府を開いた徳川家康は、毛利氏や上杉氏などの所領を削減はしたものの、大名としての存続は許し、所領も安堵して地方分権を採用している。これに対して信長は、毛利氏や上杉氏などを武力で滅ぼして、その領土を完全に自分のものとしたうえで、自分の直臣をその領地に入れて統治するという、いわば中国大陸の王朝のような太守制度、ひいては中央集権化を目指していたのではないかと思われるのだ。

しかし、それについては異論もある。信長は確かに敵対大名を完全に滅ぼした上で直臣を領地に入れているとのイメージが強いが、実際には滅ぼした大名の旧臣を安堵した例も数多い。また、宇喜多・徳川以外にも三好・松永・筒井・北畠・姉小路のような大名の事実上の臣従も認めている。朝倉氏を滅ぼした際にも、朝倉氏を殲滅したわけではなく、朝倉景健などの一族の存続は認めている。すなわち、信長は敵勢力の打倒には硬軟両面での柔軟な対策を採っており、信長が敵の臣従を許さなかったとする通説は、結果的に信長と徹底抗戦する勢力が目立ったために広まったものにすぎないとの意見である。同様に、信長が朝廷とは独立した日本国の元首を目指していたとする説にも異論が多く、正親町天皇の孫(儲君誠仁親王の五宮)を猶子としているなどの例がその反証にもちいられることが多い。ただ、これらの反論においても、信長が朝廷を上回る権力を目指していたことには反対しておらず、信長は朝廷から独立するのではなく平清盛や将軍辞任後の足利義満の先例に倣って太政大臣となって朝廷を支配する目論見があったとしていることが多い(三職補任問題)。

[編集] 政権機構

織田政権が、京都に上洛して政権を確立してから、信長が死去する10数年間という短期間に勢力を拡大できたことの要因のひとつとして、その政権内部が強固に確立されていたからだと言える。

楽市楽座等の経済政策により、金銭で多くの軍役従事者を雇用することができたため、農繁期・農閑期を問わず、京など政略的・戦略的要地に、長期的に大軍を派遣することができた。そのため既存の勢力(武田氏上杉氏等)のように、その軍団を構成する多数の国人地侍の意向に配慮する必要もなく、独裁的に政治・軍事を展開することができた。またそのような常備軍を中核にすることよって、その行動は常に神速であり、他を圧倒した。ただし、近年の研究では他の戦国大名も独自にこれらの政策に取り組んでいたことが明らかになっている。信長が最も早くこれを大規模に成し遂げることができたのは、生産力の高い濃尾平野を早い時期に統一的に支配できたことが大きな要因である。

鎌倉中期から徐々に発展してきた貨幣経済や商業・流通経済を政策に取り込んだ体制の維持の成功は、豊臣秀吉蒲生氏郷など多くの模倣者や追随者を生んだ。

信長は、同時多方面軍を採用し、大規模に活用した。北陸方面に対しては、柴田勝家を方面軍総司令官に、前田利家佐々成政らを配属し、中国方面に対しては、羽柴秀吉を方面軍総司令官として、黒田官兵衛蜂須賀正勝らを配し、畿内方面に対しては、明智光秀を総司令官として、細川忠興筒井順慶を配下に付し、関東方面に対しては嫡男・信忠を総司令官に、滝川一益森長可を配付し、四国方面に対しても三男の織田信孝を総司令官に、丹羽長秀蜂屋頼隆らを配属している。信長存命中は、この方面軍による機能がうまく作用して、各地で連戦連勝を重ねて、織田政権は短期間で領土を拡大することに成功した。ただし、柴田勝家や羽柴秀吉、明智光秀など、その方面軍司令官たちが擁する兵力は、上杉や毛利など、一大名の兵力をはるかに凌ぐ大兵力であり、つまり総司令官が謀反を起こして織田政権から独立しようと企てれば、簡単にできたのである。信長が明智光秀に本能寺で襲われたのが、それを如実に示しているように、信長は配下の家臣に兵力を与えすぎていたのである。以上から、信長の方面軍制度は、急激な勢力拡大を可能にしたが、同時に自分の首を絞めることとなったため、失敗したとも言えるのである。

その一方、織田政権崩壊の原因は、政権の構造的な問題より、むしろ織田信忠の死が大きいとする意見もある。すなわち、信長は本能寺の変以前に、大名としての織田家の家督は信忠に譲っており、自らは、織田・柴田・明智・羽柴・神戸(信孝)・北畠(信雄)などの「大名(信長の取立による大名)」の上に君臨する存在となっていた。そのため、配下の柴田や明智などの大名が、毛利や上杉などの信長に臣従していない大名より大きな兵力をもっていても組織としては問題がなく、むしろ合理的であったと言える。つまり織田家はすでに信長の直接指揮から外れているため、信長自らが巨大な兵力をもつことは組織としての弊害が大きいといえる(信忠が大兵力をもつのであれば問題ない)。そのため、仮に信長配下の大名の謀反により信長が倒されても、信長傘下でもっとも大勢力をもつ織田家の当主が生き残っていれば、政権が維持できる構造になっていた。従って政権崩壊の主要因は後継者の死亡との説である。

他にも、織田政権が崩壊した理由には、極端な能力主義を採ったために、信長死後の羽柴秀吉による織田家の簒奪を許したことが主要因との意見もある。そのために、徳川幕府は、能力よりも忠誠心や家柄、譜代家臣を重視する旧来の封建体制を復活させ、体制維持に努めたとの意見もある。

信長は京都支配を重要視し、村井貞勝京都所司代として、朝廷に対する交渉や監視を任せている。貞勝は信長の期待にこたえて、信長存命中は大過なく京都を統治している。

また犯行そのものについては、以下の代表的な説がある。 1.「光秀単独犯行」説 2.「実行犯=光秀、黒幕=義秋」説 3.「実行犯=光秀、黒幕=朝廷」説 4.「実行犯=斉藤利三、光秀追認」説 5.「黒幕=イエスズ会」説 どれも前後の状況が疑われるものの、確定的な証拠がなく、矛盾も多い。 動機については類推をでない。

[編集] 関連項目

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