織田信照

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織田 信照おだ のぶてる、? - 慶長15年10月18日1610年))は、織田信秀の九男、又は十男。織田信長の庶弟。母は熱田の商家の娘とされる。官位は越中守。

信長の弟だが、生母・中根氏の縁で中根忠貞の養子となり、中根姓を称した。

天正10年(1582年)に信長が死去した後は信長次男の織田信雄の家臣となり、同12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参戦したが、羽柴軍の攻勢に敗れて捕虜となった。しかし、信長の弟であるということから一命は助けられた。戦後、再び信雄に仕えたらしい。


なお信照は、徳川家康の股肱の臣として知られる本多忠勝の家に仕え、家老となった中根氏の祖・中根平右衛門忠実として伝えられている。家康の配下になった時期までは明確ではないが、養父である忠貞の実弟・中根正秋が三方ヶ原の戦いで落命して以降、絶えていた正秋の跡式を継いだとされる。

家康の関東移封後、天正19年(1591年)頃から上総国大多喜10万石の城持ち大名となった本多忠勝に、付け家老として配されたという。

慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは大多喜の留守居を嫡子・源次郎忠晴と務めた。戦勝に伴う伊勢国桑名への移封で同僚らと先入。縄張り・町割りなど城下の再整備に従事している。

慶長15年10月18日1610年)、主・忠勝に殉じて追い腹を切った。戒名は観月院殿覚窓浄安居士。


付け家老という事で本多家と公儀の両方から扶持をうけ、3000石を食んでいたという。嫡子・源次郎忠晴が平右衛門の通称とともに家督を引き継ぎ、子孫らは本多家の家老として職責を全うしている。

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