内閣総理大臣
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内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)は、日本の行政府である内閣の長の官職名である。総理大臣または総理と呼ばれ、首相とも通称される。
| 日本の統治機構 | ||
|---|---|---|
| 日本国憲法 | ||
| 天皇 | ||
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| 地方自治 | ||
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目次 |
[編集] 概説
日本国憲法と現行の内閣法以下法令が規定する内閣総理大臣の地位は次の通りである。
- 地位
- 内閣総理大臣は「行政府の首長」と位置づけられている。
- 身分
- 資格
- 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。 (憲法66条2項)
- 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決 (首班指名) でこれを指名する。 (憲法67条1項)
- 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。 (憲法6条1項)
- 内閣総理大臣の資格は、文民であり、国会議員であること、この二点のみである。衆議院議員総選挙があった時は、その後の特別国会の冒頭で内閣は総辞職しなければならないため、一内閣の存続期間は最長でも約4年となるが、首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣の多選に制限はない。また、衆議院議員の内閣総理大臣は衆議院解散によって国会議員の地位を失うが、選挙後の特別国会で本人が再指名を受けるか、または別の者が首班に指名されて新総理が誕生するまでは、引き続き内閣総理大臣の職に留まることになっている。)。
- 臨時代理
- 内閣総理大臣が欠けたとき、または衆議院総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない。 (憲法70条)
- 旧内閣は次の内閣総理大臣が任命されるまでは引き続きその職務を行う。 (憲法71条)
- 内閣総理大臣に事故のあるとき、または内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が臨時に内閣総理大臣の職務を行う。 (内閣法9条)
- 内閣総理大臣が外遊などの一時的な理由で国内で職務を行えない場合にも、この内閣法第9条に基づいて国務大臣の一人が内閣総理大臣臨時代理としてその職務を行う。以前は組閣時に内閣総理大臣臨時代理予定者に指名された国務大臣を副総理と呼ぶ慣行があったが、2000年 (平成12年) 4月以降、組閣時に内閣総理大臣臨時代理の就任予定者5名を指定して官報に掲載するように方針が改められた。またその第一順位は原則として内閣官房長官たる国務大臣となった。
- 主任の大臣
- 内閣官房に係る事項については、この法律にいう主任の大臣は、内閣総理大臣とする。 (内閣法23条)
- 内閣法制局に係る事項については、内閣法(昭和二十二年法律第五号)にいう主任の大臣は、内閣総理大臣とする。 (内閣法制局設置法7条)
- 会議に係る事項については、内閣法にいう主任の大臣は、内閣総理大臣とする。 (安全保障会議設置法11条)
- 内閣総理大臣は、内閣府に係る事項についての内閣法にいう主任の大臣とし、第四条第三項に規定する事務を分担管理する。 (内閣府設置法6条2項)
- 内閣総理大臣は内閣官房、内閣法制局、安全保障会議、内閣府の主任の大臣であり、内閣府の長でもある。内閣官房と内閣法制局においては、その長である内閣官房長官と内閣法制局長官が組織・事務を統括する。内閣府においては、本府の事務を内閣官房長官が統括し、また、一部の職務について特命担当大臣を置きその事務を統括させることができる。
[編集] 権限
日本国憲法およびその他の法令が規定する内閣総理大臣の権限は次の通り。
- 他の国務大臣を任命し、任意に罷免すること (憲法68条)
- 在任中の国務大臣に対する訴追に同意すること (憲法75条)
- 内閣を代表して議案を国会に提出すること (憲法72条)
- 内閣を代表して一般国務及び外交関係について、国会に報告すること (憲法72条)
- 内閣を代表して行政各部を指揮監督すること (憲法72条)
- 法律及び政令への連署をすること (憲法74条、権限であると同時に義務でもある)
- 閣議を主宰すること。 (内閣法4条2項)
- 内閣総理大臣及び主任の国務大臣の代理を指定すること。 (内閣法9条、10条)。
- 行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つことができる。 (内閣法7条、「中止権」)
- 緊急事態の布告を発すること。 (警察法71条)
- 布告時における警察の統制。 (警察法72条)
- 自衛隊の最高指揮監督権を有する。 (自衛隊法7条)
- 武力攻撃事態又はその発生が切迫していると認められるに至った事態に際して、自衛隊の全部又は一部に出動を命ずる。 (自衛隊法76条、「防衛出動」)
- 間接侵略又はその他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部に出動を命ずる。 (自衛隊法78条、「命令による治安出動」)
- 防衛出動又は治安出動による自衛隊の全部又は一部に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、海上保安庁の全部又は一部をその統制下に入れること。 (自衛隊法80条)
- 武力攻撃事態等に至り、対処基本方針が定められたときは、内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長 (内閣総理大臣をもって充てる場合) として、所要の権限を行う。 (武力攻撃事態平和確保法14条)
- 上記14条の総合調整に基づく所要の対処措置が実施されない場合、内閣総理大臣として地方公共団体の長等に対し、対処措置を実施すべきことを指示すること。 (武力攻撃事態平和確保法15条)
- 気象庁長官から地震予知情報の報告を受けた場合において、地震防災応急対策を実施する緊急の必要があると認めるときは、閣議にかけて、地震災害に関する警戒宣言を発する。 (大規模地震対策特別措置法9条)
- 内閣府の長として、各種管轄業務の許認可権を有する。
[編集] 呼称
内閣総理大臣の「総理」という語には「長」または「首席」という意味がある。したがって「内閣総理大臣」とは「内閣の首席閣僚」という意味になる。
足利義満
一方、首相の「相」は、かつて中国で皇帝の下で政務を司った官職の「宰相」や「丞相」の「相」が語源。日本でも平安時代以降には太政大臣を「相国」または「大相国」と呼んでいたことがある (京都の相国寺は開基の足利義満の極官が太政大臣だったことに由来する)。中国では後の宋代などで宰相が複数になると、その首席のものを「首相」または「首揆」と呼ぶこともあったという。
つまり「内閣総理大臣」と「首相」の意味するところは同じ「主席閣僚」である。このニつはいずれも英語の Prime Minister を和訳したものである。
1863年 (文久3年) に親友の井上馨らとともにイギリスへ密航し、1871年 (明治4年) からは岩倉使節団の一員として一年十ヵ月にもわたってアメリカやヨーロッパ諸国をまわり、約半年にわたってイギリスに滞在、そして1882年 (明治15年) には憲法調査を目的に三度目の渡英をした伊藤博文にとって、英国はやはり愛着のある土地だった。内閣制度の早期確立を目指し、その首班には自分をおいて他にはないと自負していた伊藤にとって、大日本帝国の憲法はドイツ式でも、その指導者にふさわしい呼称はこの英国式の「プライムミニスター」だったのである。
しかしその訳語をどうするかが問題だった。内閣制度が発足する前から伊藤や彼の側近だった伊東巳代治や金子堅太郎などは日記や備忘録などに「首相」「宰相」という語を用いていた。しかし保守派の太政大臣・三條實美を納得させるためにも、日本の指導者の呼称は大化の改新から連綿と続く「〜大臣」である必要があった。しかし「首大臣」では格好がつかない。かつて幕府では老中の筆頭を「老中首座」と呼んでいたが、「首座大臣」でも五十歩百歩である。そこでひねりだされたのが「主席閣僚」を「内閣総理」ともったいぶらせ、これにさらに「大臣」をつけた「内閣総理大臣」だった。
しかしこの呼称は政府部内でも浸透するのに時間がかかったようで、内閣制度発足当時から内閣総理大臣のことは一般に「首相」と呼ばれていたという。また同様に「外務大臣」は「外相」、「大蔵大臣」は「蔵相」などと他の「大臣」も右にならえで「相」になり、ついには「枢密院議長」までもが「枢相」になってしまった。古来「太政大臣」を「相国」、「左大臣」を「左府」、「内大臣」を「内府」などと一様に縮めてきたのと同質の現象が起ったのである。
オットー・フォン・ビスマルク
さて「宰相」の方だが、この語は平安時代より「参議」の別称として定着していたので、1885年 (明治18年) の時点で参議だった伊藤は意図的にこれを避けたふしがある。ところがそうはさせなかったのがビスマルクだった。1871年、普仏戦争の勝利を機にドイツ統一を達成し、初代ドイツ帝国の首相になったオットー・フォン・ビスマルクは、その後19年間にわたってドイツ政界に君臨し、ビスマルク体制という巧みな外交術をもってヨーロッパに平和の時代をもたらしていた。このドイツ帝国の首相、 Reichskanzler (英:Chancellor of the Empire) は、ドイツ連邦議会上院の議長を兼務する強力な権限をもったものであり、イギリスの首相とは若干性質が異なったものであったことから、日本では「皇帝の下で政務を司る官職」という中国語本来を意味でこれを「宰相」と呼んでいた。日本で内閣制度が始まったころはビスマルクの全盛期である。日本でも彼にあやかって内閣総理大臣のことを宰相と呼ぶ者が後を絶たなかったという。
なお「内閣総理大臣」は日本固有の官職名であり、外国の首相に対しては原則として使用しないことになっている<ref>ただし20世紀のはじめには、旧大韓帝国と旧大清帝国に一時期「内閣総理大臣」という名の首相職が存在した。</ref>。現在日本では、イギリスの指導者 (Prime Minister) もドイツの指導者も (Bundeskanzler, 英:Federal Chancellor) も中国の指導者 (国務院総理) も、みな一律に「首相」と呼んでいる。
[編集] 歴史
[編集] 改革
明治維新以後、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極端に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭、しかも行政府を事実上主宰していたのは参議だったり内務卿だったりという、複雑迂遠で非効率なものだった。
発足直後の明治政府を主導したのは木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の三人だった。総裁局顧問専任として五箇条の御誓文を起草し政体書を建言、新政府と新国家の骨格作りに尽力した木戸孝允が実質的な初代宰相、その木戸や大久保が岩倉使節団に加わり二年近くにわたって外遊しているあいだ、留守政府を預かって諸施策を断行した参議西郷隆盛が実質的な第二代宰相に相当する。明治六年の政変で西郷が下野し木戸が病気に臥せりがちになると、権力は内務卿の大久保に集中、彼が実質的な第三代宰相として残された改革を推進した。この維新の三傑が一年あまりの間に次々に世を去ると<ref>木戸は明治10年5月26日病死、西郷は同年9月24日西南戦争で負死、大久保は翌11年5月14日紀尾井坂の変で暗殺されている。</ref>、彼らと当初から肩を並べて参議だった大隈重信が主席参議に推されて実質的な第四代宰相となった。木戸のあと長州を代表して参議に、また大久保のあとを襲って内務卿となっていたのが伊藤博文だったが、明治十四年の政変で大隈が下野すると、最後に残ったこの伊藤が実質的な第五代宰相として改革の総仕上げに着手することになった。
政変や暗殺などによってのみ政権が交代するというこの制度が、いかにも非文明的で不備なものであることは誰の目にも明らかだった。そこで1881年 (明治14年) ごろから伊藤は太政官制の改革を試みはじめる。しかし保守派の太政大臣三條實美らはこれを警戒し、その伊藤を右大臣に充てるという人事改革案でこれに応酬した。伊藤はこれを丁重に断り、代わって黑田清隆を推したが、こんどは酒乱の気がある黑田に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。
翌1882年 (明治15年) 3月から伊藤は、伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法の調査に当たった。この時から「文明諸国と同等の政府」という内閣制度の骨格が具体的に構築されていく。
「憲法調査」のための渡欧から帰国した伊藤らがまず押し進めたのは、憲法ではなく、内閣制度だった。「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ (立法議政府、行政宰相府) 恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤の語録にあるように、憲法とセットにして近代的内閣制度をつきつけられては、保守派も反対の名目が立たない。伊藤の作戦勝ちであった。
[編集] 発足
1885年 (明治18年) 12月22日、太政官達第69号で (1) 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣、並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと、(2) 内閣総理大臣及び各大臣 (宮内大臣を除く) をもって内閣を組織すること、が定められ、ここに内閣制度が発足した。 またこのとき同時に定められた内閣職権によって、内閣総理大臣には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」 (内閣職権2条) と、形の上では強力な権限を与えられていた。
しかし1889年 (明治22年) に大日本帝国憲法が発布されると、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」 (旧憲法4条) 及び「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」 (旧憲法55条) という定めから、統治権を総覧する天皇を輔弼するのは各国務大臣であり、内閣は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられることになった。これを受けて同年12月24日に公布された内閣官制により、「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」 (内閣官制2条) と、総理の権限は弱められ、その結果「首班」とは「同輩中の首席」を意味するものと解釈されることになったのである。
[編集] 問題
こうして内閣制度が始まったが、それは三つの大きな制度上の問題を抱えたものだった。
その第一が、行政権と統帥権の乖離である。そもそも旧憲法には、内閣や内閣総理大臣の権能が一切書かれておらず (旧憲法の条文には「内閣」や「内閣総理大臣」という語がひとつも含まれていない)、わずかに前記の4条と55条の実際的な解釈により、行政権は事実上内閣に属すると考えられていた。ところが旧憲法にはまた「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」 (旧憲法11条) という条文もあり、このため軍令 (作戦行動に関する軍務) については統帥部 (陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長) が補弼するものと考えられていた。ならば「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」 (旧憲法12条) や「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」 (旧憲法13条) などといった、軍政に関する事項を輔弼するのはどちらの方なのか。この軍令と軍政の不明瞭な権能がしばしば軍部と政府の対立の元となり、後には統帥権干犯問題などの大問題を引き起こす素地となる。
その第二は、内閣がきわめて弱体であったことである。旧憲法下の内閣総理大臣は、それぞれが天皇に対して輔弼の責任を負う各国務大臣の協議組織における「同輩中の首席」という位置づけでしかなかった。したがっていったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣にできることといえば反対派を説得することぐらいのもので、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。これを利用したのが陸軍だった。「陸海大臣に任じられるものは現役の大将中将に限る」という軍部大臣現役武官制をテコに、内閣の決定した政策が軍部の意向に沿わない場合、陸軍大臣は単独で天皇に辞表を提出して辞めてしまい、陸軍は後任の陸軍大臣を推薦しないのである。陸軍大臣を欠いては内閣は存続し得ないので、時の内閣総理大臣は総辞職するしかなかった。
その第三は、内閣総理大臣を選定する制度の欠如である。旧憲法は、議会に基盤を持たない内閣が超然と存在すること (超然内閣) を前提に書かれたものだったため、内閣総理大臣の選定に当たってはなんら制度的な手続きが存在せず、内閣制度発足時からこれが慣例にもとづいて行われてきた。しかし元老の間で総理がたらい回しにされていたころ (初期) や元老会議によって総理が選定されていたころ (第二期) にはかろうじて彼らの良識によって保たれていた総理の資質も、最後の元老と重臣たちによる合議や (第三期) や内大臣の召集する重臣会議 (末期) が総理の選定を行うようになるとたちまち低下し、現役の陸軍大将が内閣総理大臣に充てられこれが陸軍大臣と参謀総長を兼任するようになると (東條英機)、独立した行政府の存在は事実上崩壊することになった。
[編集] 戦後
第二次世界大戦後の1947年 (昭和22年) 5月3日に施行された日本国憲法には、「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」 (66条1項) とあり、これと同時に施行された内閣法では「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」 (第6条) など、その権限は大幅に強化された。また「行政権は、内閣に属する」 (憲法65条) と行政権の所属も明記され、「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」 (憲法6条1項) とその決定システムも明文化された。これらの改革は、旧憲法下における内閣総理大臣の権限が極めて弱かったために軍部の独走を許したことを反省したものである。
新憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、反対派に辞職を迫るか罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を意のままに任命することができる。この顕著な例が解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが (7条3項)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということであり、「閣議決定なしには解散はできない」ということである。しかし一般には「解散権は内閣総理大臣の専権」だと解釈されている。これは解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免したうえで自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣は全ての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる。したがって内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手だては法令上はない。このように大臣に対する任意の罷免権の効果は極めて大きい。
[編集] 逸話
三條實美
- 内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、明治十四年の政変以後実質的な宰相として明治政府を主導し内閣制度を築き上げた伊藤博文だった。しかし三條は藤原北家閑院流の嫡流で清華家のひとつ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友だった井上馨は「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決ってしまった。初代総理を決めたのは英語力だったのである。
- 伊藤の内閣総理大臣就任にともない、三條は内大臣として宮中にまわり、天皇の側近として明治天皇を「常時輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、その実は二階にあげて梯子を外したようなものだった<ref>ただし三條に限っては特旨により宮中席次を内閣総理大臣の上とし、生涯にわたって文武百官の最上位に据えることで報いている。</ref>。これにはさすがの明治天皇も気の毒に思ったのか、1889年 (明治22年) 10月25日に第二代内閣総理大臣の黑田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職すると、天皇は黑田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を兼任させた。「臨時代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから二ヵ月も経った12月24日のことだったので、この二ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただしそれでも三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことになっている。
[編集] 記録
[編集] 在任
佐藤榮作
東久邇宮稔彦王
- 最長在任記録:
- 桂太郎。2886日<ref>第一次桂内閣 (1901年6月2日〜1906年1月7日)、第二次桂内閣 (1908年7月14日〜1911年8月30日)、第三次桂内閣 (1912年12月21日〜1913年2月20日)。</ref>。
- 最長連続在任記録:
- 佐藤榮作。2798日<ref>1964年11月9日〜1972年7月7日。</ref>。
- 最短在任記録:
- 東久邇宮稔彦王。54日<ref>1945年10月9日〜5月22日。</ref>。
- 最年長在任記録:
- 鈴木貫太郎。77歳8ヵ月<ref>1945年8月17日の退任時。</ref>。
- 最年少就任記録:
- 伊藤博文。44歳3ヵ月<ref>1885年12月22日の就任時。</ref>。
- 最長在野雌伏記録:
- 大隈重信。15年5ヵ月<ref>1898年11月8日第一次大隈内閣総辞職、1914年4月16日第二次大隈内閣発足。</ref>。
- 最多任命記録:
- 吉田茂。五回<ref>第一次吉田内閣 (1946年5月22日〜1947年5月24日)、第二次吉田内閣 (1948年10月15日〜1949年2月16日)、第三次吉田内閣 (1949年2月16日〜1952年10月30日、改造三回)、第四次吉田内閣 (1952年10月30日〜1953年5月21日)、第五次吉田内閣 (1953年5月21日〜1954年12月10日)。</ref>。
- 最多組閣記録:
- 佐藤榮作。九回<ref>(1) 第一次佐藤内閣 (1964年11月9日組閣)、(2) 第一次佐藤内閣第一次改造内閣 (1965年6月3日組閣)、(3) 第一次佐藤内閣第二次改造内閣 (1966年8月1日組閣)、(4) 第一次佐藤内閣第三次改造内閣 (1966年12月3日組閣)、(5) 第二次佐藤内閣 (1967年2月17日組閣)、(6) 第二次佐藤内閣第一次改造内閣 (1967年11月25日組閣)、(7) 第二次佐藤内閣第二次改造内閣 (1968年11月30日組閣)、(8) 第三次佐藤内閣 (1970年1月14日組閣)、(9) 第三次佐藤内閣改造内閣 (1971年7月9日組閣)。</ref>。
[編集] 病魔
加藤友三郎
加藤高明
- 病気により在任中死去した内閣総理大臣:
- 病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣:
- 病気により退陣した内閣総理大臣:
- 病気による後遺症を克服した内閣総理大臣:
[編集] テロ
原敬
犬養毅
岡田啓介
- 在任中テロに遭った内閣総理大臣:
- 原敬。1921年 (大正10年) 11月4日、東京駅の構内で大塚駅駅員中岡艮一に胸を刺される。刃渡り五寸の短刀が肺と心臓を貫通し即死。
- 濱口雄幸。1930年 (昭和5年) 11月14日東京駅のホームで右翼団体に所属する佐郷屋留雄に狙撃される。銃弾一発が骨盤まで達する重傷。安静が必要だったが、首相臨時代理の設置が四ヵ月近くに及んで野党が反発。このため濱口は病躯に鞭打って登院するが、これで症状が悪化し、一ヵ月後に内閣総辞職、その四ヵ月後に死去した。
- 犬養毅。1932年 (昭和7年) 5月15日、五・一五事件で総理官邸に乱入した武装青年将校に銃撃される。左頬と右こめかみに銃弾二発を被弾、出血多量で約五時間後に絶命。
- 岡田啓介。1936年 (昭和11年) 2月26日、二・二六事件で総理官邸に武装青年将校が乱入すると、岡田の義弟で秘書兼身辺警護役を務めていた松尾伝蔵はとっさに岡田を風呂場に押し込み、自らが兵士たちの前に走り出て射殺された。松尾は岡田と年齢や背丈が近かったため、万一に備えて普段から岡田に似せた顔格好を練習していたという。青年将校は松尾を岡田と誤認し総理死亡を発表、一方岡田は女中部屋の押し入れに隠れて難を逃れた。翌日、総理秘書官の迫水久常らは奇策を練り、麹町憲兵分隊で顔見知りの憲兵の協力を得て、通夜と称して岡田と同年配の弔問者を多数官邸に入れ、退出者に岡田を交えて見事に官邸を脱出させた。
- テロに倒れた元内閣総理大臣:
- 伊藤博文。1909年 (明治42年) 10月26日、満州ハルビン駅の構内で韓国の民族主義運動家安重根に狙撃される。銃弾三発を腹部に被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長だった。
- 高橋是清。1936年 (昭和11年) 2月26日、二・二六事件で赤坂の自邸に乱入した武装青年将校に襲撃される。銃弾三発を被弾したうえ軍刀で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣だった。
- 齋藤實。1936年 (昭和11年) 2月26日、二・二六事件で四谷の自邸に乱入した武装青年将校に襲撃される。齋藤は拳銃と機関銃弾を四十数発浴び即死、齋藤を必死にかばおうとした春子夫人も至近距離から銃弾二発をうけ重症を負った。当時齋藤は内大臣だった。
大隈重信
田中義一
- かつてテロに遭いながらも命拾いをした内閣総理大臣:
- 大隈重信。1889年 (明治22年) 10月18日、馬車で外務大臣官邸に入ろうとしたところで、国家主義団体玄洋社に所属する来島恒喜に爆弾を投げつけられる。爆弾は馬車の中で爆発、大隈は右脚切断の重症を負った。外務大臣として大隈は条約改正交渉を進めており、その手法に不満を持っての犯行といわれるが、来島は犯行直後に短刀で頚動脈を切って自殺している。この事件で条約改正交渉は頓挫、黑田清隆内閣も瓦解してしまった<ref>切断された大隈の右脚はホルマリン漬けにされて長らく早稲田大学に保存されていたが、1999年に佐賀市の大隈家の菩提寺に寄贈されている。</ref>。
- 田中義一。1922年 (大正11年) 3月28日、軍事参事官としてフィリピンを訪問した帰途、寄港地の上海で関税検査を終えて建物の外へ出たところで、韓国の抗日結社義烈団に所属する金益相、呉成崙、梁健治に襲撃される。呉の撃った銃弾一発が田中の山折帽を貫通して前を歩いていた米国人女性に命中。さらに金が爆弾二発を投げつけたが共に不発だった。被弾した女性は病院へ搬送中に死亡、常に紳士であることを心がけていた田中が、レディーファーストと女性に先を譲ったのが命運を分けた<ref>田中はその日の日記に「爆弾の破裂せざりしは誠に余の幸福なり……唯初発なりしか最後なりしか、余の帽子に一発命中、四孔を穿てり。しかしこれは当分秘する考えなり」と記している。</ref>。
- 齋藤實。二・二六事件で暗殺された齋藤は、総理になる前にもテロに遭っている。1919年 (大正8年) 9月2日、齋藤は朝鮮総督として京城に着任し、汽車で南大門駅に到着。駅舎正面の車寄せで乗車しようとしたところへ、抗日独立運動家姜宇奎らが背後に爆弾を投げつけた。爆弾が炸裂し、齋藤の随行員や総督府からの出迎えの官僚など三十数名が重軽傷を負ったが、齋藤は破片の一つが軍装の革帯で止まって奇跡的に無事だった。
- 鈴木貫太郎。1936年 (昭和11年) 2月26日、二・二六事件で麹町の侍従長官邸に乱入した武装青年将校に襲撃される。銃弾三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾、鈴木は倒れ、辺りは血の海となった。青年将校がとどめを刺そうとしたところ、部屋の隅で押さえつけられていた妻のたかが「お待ちください!」と大声をあげ、「とどめが必要とあらば妻のわたくしが致しましょう」と言い放った。青年将校はこれに感服して、鈴木に敬礼をすると兵士を連れて引き上げた。血まみれの鈴木は円タクに押し込まれて日大病院に運ばれたが、出血多量で心臓が停止。たかが耳元で必死に呼びかける中なか、甦生処置と輸血を施したところ、鈴木は奇跡的に息を吹き返した。弾丸がわずかに急所をはずしていた<ref>左頭部に入った弾丸は貫通して耳の後ろから出ていた。左胸から入った弾丸は心臓をかすめてその裏側で止まっており、左脚付根から入った弾丸は睾丸で止まっていた。</ref>のが幸いしたが、なによりもたかの機転が鈴木の命を救った。
[編集] 代行
大日本帝国憲法が制定され諸制度が整う以前に、例外的に内閣総理大臣を「兼任」した者がいた。
旧憲法下では、内閣総理大臣が欠けたとき他の者がその職務を代行することを「臨時兼任」、内閣総理大臣が執務不能のとき他の者がその職務を代行することを「臨時代理」と呼んで区別していた。
若槻禮次郎
幣原喜重郎
- 旧憲法下で内閣総理大臣を臨時兼任または臨時代理した者:
- 黑田清隆。第二次伊藤内閣で、伊藤博文総理が1896年 (明治29年) 8月31日に単独で辞任すると、次の松方正義が組閣する9月18日までの間、枢密院議長で班列として閣内にあった黑田清隆が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 西園寺公望。第四次伊藤内閣で、伊藤博文総理が1901年 (明治34年) 5月10日に単独で辞任すると、次の桂太郎が組閣する6月2日までの間、枢密院議長で班列として閣内にあった西園寺公望が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 内田康哉。原内閣で、原敬総理が1921年 (大正10年) 11月4日に暗殺されると、次の高橋是清が組閣する11月13日までの間、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 内田康哉。加藤友内閣で、加藤友三郎総理が1923年 (大正12年) 8月24日に病死すると、次の山本權兵衞が組閣する9月2日までの間、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 若槻禮次郎。加藤高内閣で、加藤高明総理が1926年 (大正15年) 1月28日に病死すると、自らが次の内閣を組閣する1月30日までの間、内務大臣の若槻禮次郎が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 幣原喜重郎。濱口内閣で、濱口雄幸総理が1930年 (昭和5年) 11月14日に銃撃され執務不能になると、翌1931年 (昭和6年) 3月10日までの間、外務大臣の幣原喜重郎が内閣総理大臣を臨時代理した。116日にもわたる総理職の代行は最長不倒記録で、幣原はこの間、後の東久邇宮稔彦王 (54日)、石橋湛山 (65日)、宇野宗佑 (69日)、羽田孜 (64日) 各総理よりも長く国政担当の任にあたったことになる。
- 高橋是清。犬養内閣で、犬養毅総理が1931年 (昭和6年) 5月16日に暗殺されると (五・一五事件)、次の齋藤實が組閣する5月26日までの間、大蔵大臣の高橋是清が内閣総理大臣を臨時兼任した。
- 後藤文夫。岡田内閣で、1936年 (昭和11年) 2月26日総理官邸が襲撃され岡田啓介総理の消息が不明になると (二・二六事件)、その無事が確認される2月28日までの間、内務大臣の後藤文夫が内閣総理大臣を臨時代理した。このとき反乱軍が「総理死亡」と発表したため、政府は後藤を臨時兼任とするか臨時代理とするかで苦慮した。もし後藤を臨時兼任とした場合、岡田が生存していたら、総理が二人になってしまうためである。結局後藤は臨時代理に落ち着いたが、岡田は実際無事で、二日後姿を現し後藤を安堵させた。
石橋湛山
小渕恵三
新憲法下ではこの区別がなくなり、総理の死亡、執務不能、外遊などの理由により他の閣僚が内閣総理大臣の職務を代行することをすべて「臨時代理」と呼んでいる。
- 新憲法下で死亡または執務不能の内閣総理大臣を臨時代理した者:
- 岸信介。石橋内閣で、石橋湛山総理が1957年 (昭和32年) 1月31日に急性肺炎で執務不能になると、自らが次の内閣を組閣する2月25日までの間、外務大臣の岸信介が内閣総理大臣を臨時代理した。
- 伊東正義。大平内閣で、大平正芳総理が1980年 (昭和55年) 6月12日未明に死去すると、次の鈴木善幸が組閣する7月17日までの間、内閣官房長官の伊東正義が内閣総理大臣を臨時代理した<ref>ただし官報掲載の辞令上の発令は前日6月11日付。</ref>。
- 青木幹雄。小渕内閣で、小渕恵三総理が2000年 (平成12年) 4月2日深夜に脳梗塞で執務不能になると、次の森喜朗が組閣する4月5日までの間、内閣官房長官の青木幹雄が内閣総理大臣を臨時代理した<ref>ただし官報掲載の辞令上の発令は翌4月3日付。</ref>。
なお国会で首班指名を受けた後、組閣に手間どるなどの理由から内閣総理大臣のみが親任式で任命され閣僚の認証式が後刻・後日にずれ込むようなことがあると、内閣総理大臣はその期間中全閣僚を臨時代理または事務取扱いして閣議書に署名することがある。
- 一人で内閣の全閣僚を代理した内閣総理大臣:
- 片山哲。1947年 (昭和22年) 5月24日から6月1日まで9日間にわたって全閣僚を臨時代理または事務取扱いした<ref>ただし物価庁長官事務取扱は5月27日付発令、経済安定本部総務長官事務取扱は発令せず。</ref>。
- 吉田茂。1948年 (昭和23年) 10月15日から10月19日で5日間にわたって全閣僚を臨時代理または事務取扱いした。
- 石橋湛山。1956年 (昭和31年) 12月23日の一日に限り全閣僚を臨時代理または事務取扱いした<ref>同日夜更に閣僚認証式。</ref>。
- 羽田孜。1994年 (平成6年) 4月28日の一日に限り全閣僚を臨時代理または事務取扱いした<ref>同日夜更に閣僚認証式。</ref>。
[編集] 罷免
新憲法下で内閣総理大臣に付与された国務大臣の罷免権は、解散権とならぶ総理の伝家の宝刀だが、こちらは「鞘の内」のたとえどおり<ref>名刀は鞘の内に収まっているときこそ値打ちがあるように、強力な権能はそれを持っているだけで価値があるもので、使わずに済むものなら使わないに越したことはないというたとえ。閣僚の罷免はその政治家の政治生命を断つことにつながる可能性があるうえ、野党からは総理自身の任命責任まで追究されかねない。このため歴代の総理は大臣の更迭が必要な場合でも、形式上はその者を自発的に辞任させている。</ref>、これまでに数えるほどしか行使されたことがない。
片山哲
中曾根康弘
- 罷免権を行使した内閣総理大臣:
- 片山哲。GHQの民政局 (GS) は、当初から片山内閣に社会党最右派の平野力三が入閣することを認めていなかったが、GHQ内で対立していた参謀第二部 (G2) と平野は近い関係にあり、片山はその線からマッカーサーを動かして平野の入閣を認めさせ、農林大臣に任命していた。五ヵ月も経ったころ、米価問題をめぐって平野が和田博雄経済安定本部長官と対立するようになると、民政局は強硬に平野の更迭を要求<ref>初期のGHQは占領政策をめぐって、リベラルな民政局 (GS) と保守的な参謀第二部 (G2) が事あるごとに対立しており、GS は片山・芦田内閣を支持、G2 は吉田内閣を支持という構図にあった。GS の実力者ケーディス次長と G2 のウィロビー部長は個人的にも犬猿の仲で、ケーディスは平野が吉田やウィロビーと親しい関係にあることを毛嫌いしていた。</ref>。片山は平野に辞任を求めたが聞き入られなかったため、やむなく罷免権を行使した<ref>この後平野は右派議員16人と共に社会党を脱党、これが押さえ込まれていた左派を活性化する結果となり、片山内閣崩壊の遠因になった。</ref>。
- 吉田茂。党人派の側近として吉田に重用され、自由党内に30名余の派閥を誇った廣川弘禅は、第四次吉田内閣に農林大臣として入閣していたが、鳩山政権樹立を画策する三木武吉の懐柔工作によって秘かに吉田から離反していた。折しも国会に吉田のバカヤロー発言に対する首相懲罰動議が提出されると、採決には予想していた自由党非主流派ばかりか、主流派と思っていた廣川派までもが欠席したため、動議は可決されてしまった<ref>この後たたみかけるようにして吉田内閣不信任案が提出され可決、これをうけて解散総選挙 (バカヤロー解散選挙)となったが、吉田自由党は少数与党に転落して政局は混迷、これが吉田退陣の遠因になった。</ref>。吉田は怒りこの上なく、直ちに廣川を罷免した<ref>吉田の怒りは収まらず、バカヤロー解散選挙でも吉田は廣川の選挙区に無名の新人を立てさせ、これに大金と大物の応援を繰り込んで廣川を落選させている。元祖「刺客の擁立」である。</ref>。
- 中曾根康弘。「死んだふり解散」による衆参同日選挙で300議席という空前の大勝を自民党にもたらし、その功績で中曾根は特例として総裁任期を一年延長されて第三次内閣を組織したが、組閣早々藤尾正行文部大臣が月刊誌文藝春秋とのインタビューで「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の発言をしたことから苦境に立たされる。韓国の強い反発や野党からの攻撃を受けて中曾根は藤尾に辞任を迫るが、藤尾は発言は間違っていないと辞任を拒否<ref>藤尾は、中曾根のその場しのぎの外交に一石を投じる意図で、この発言をあえて行ったという。中曾根は藤尾が師として仕えた福田赳夫の政敵であり、またその福田派を継承した安倍晋太郎の安倍派は、中曾根の総裁任期延長に反対の立場だったことから第三次中曾根内閣では冷遇されていた。こうした背景から、この事件はそもそも中曾根政権を揺さぶることを目的とした藤尾の自爆攻撃という見方が一般的だった。</ref>、中曾根はやむなく罷免権を行使した。
- 小泉純一郎。郵政国会における参議院本会議で、郵政民営化関連法案が否決されると、小泉は衆議院解散の意思を表明した。しかし解散を決定する臨時閣議では四人の大臣<ref>島村宜伸農林水産大臣、麻生太郎総務大臣、中川昭一経済産業大臣、村上誠一郎行政改革担当大臣</ref>がこれに反対、小泉が個別に説得した結果、三大臣は翻意したが、島村宜伸農林水産大臣だけが最後まで閣議決定書への署名を拒否して辞表を提出した。しかし小泉は辞表を受理せず、閣議を中断して島村を罷免、自らが農水大臣を兼務して解散を閣議決定した。
[編集] 無念
旧憲法下では、陸軍が軍部大臣現役武官制をテコに内閣を倒したことがあった。
西園寺公望
米内光政
- 陸軍大臣の単独辞任により総辞職を余儀なくされた内閣総理大臣:
- 西園寺公望。第二次西園寺内閣は、1913年 (大正2年) の予算編成に向けて歳出一割減を目指したが、陸軍は二個師団の増設を要求。西園寺が拒否の方針を示すと陸軍大臣の上原勇作が大正天皇に単独で辞表を提出、陸軍は後任を出さなかったため内閣は総辞職。新聞は「軍が内閣を毒殺」と書き立てた。この事件が第一次護憲運動の引き金となる。
- 米内光政。1940年 (昭和15年)、ナチス・ドイツがヨーロッパで破竹の進撃を続けるなか、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇は海軍の良識派として知られる米内を推して組閣させたが、陸軍はこれを好感せず、半年も経ったころ日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。
旧憲法下ではまた、組閣の大命が降下したのにもかかわらず、諸般の事情により大命を拝辞せざるを得なかった者がいた。
清浦奎吾
- 大命拝辞を余儀なくされ内閣総理大臣になり損ねた者:
- 井上馨。1900年 (明治33年)、第四次伊藤内閣で伊藤総理が突然単独で辞任すると、元老の中でまだ総理になっていない西郷従道と井上馨が次期総理の候補にのぼった。西郷は「陛下に対して弓を引いた兄隆盛のこともあり自分が総理などとはもってのほか」と固辞。井上は、右腕として全幅の信頼をおく澁澤榮一が大蔵大臣を、また四代の内閣にわたって陸軍大臣を務め先頃退任したばかりの桂太郎が陸軍大臣を再び引き受けてくれるのなら自分がやってもいいということで、大命は井上に降下した。ところが意に反してこの両者にあっさりと大臣就任を断られたことから大命を拝辞。元老会議は桂を後継に推奏、元老第一世代による総理たらい回しの時代がここに終った。
- 徳川家達。1914年 (大正3年)、シーメンス事件のあおりを受けて第一次山本權兵衞内閣が倒れると、元老会議は貴族院議長の徳川家達を次期総理に推奏。本人が色気を示したための大命降下だったが、その晩自邸で家族会議を開いたところ一族にこぞって反対されたため、翌日大命を拝辞した。
- 清浦奎吾。徳川大命拝辞の翌日、元老会議は司法大臣や内務大臣を歴任し枢密顧問官となっていた清浦奎吾を次期総理に推奏し大命が降下した。しかし海の薩摩の大立て者だった山本權兵衞総理を失い意気消沈しているところへ、陸の長州の元締め山縣有朋の直系という清浦がでてきては海軍も面白くなかった。折から懸案となっていた海軍拡張案に清浦が消極的な姿勢を見せると、海軍大臣を要請されていた加藤友三郎はこれを固辞、海軍の支持を失ったと悟った清浦は一週間後大命を拝辞した。鰻の蒲焼きの香りを嗅いだだけで食べ損なったようだったことから「鰻香内閣」と呼ばれた。替わりに大命が降下したのは朝鮮総督の寺内正毅だった。八年後、加藤友三郎は先に総理になっていたが、彼が在任のまま病死、その後任として再び総理となった山本も1年足らずで辞職すると、当時枢密院議長だった清浦に再び大命が降下、このときは晴れて総理となっている。
- 近衞文麿。1936年 (昭和11年)、二・二六事件の責任を取って岡田内閣が総辞職すると、最後の元老西園寺公望は秘蔵っ子の近衞を次期総理に推奏、大命が降下した。近衞にはかねてから政治的野心があったが、未曾有のクーデター未遂事件後の政局が困難を極めるであろうことは誰の目にも明らかで、火中の栗を拾うことを嫌った近衞は病気を理由に大命を拝辞した。替わりに大命が降下したのは外務大臣の廣田弘毅だった。
- 宇垣一成。1937年 (昭和12年)、議会における濱田國松議員との「割腹問答」に激怒した寺内陸軍大臣が解散を求めると廣田はあっさり内閣を投げ出したので、西園寺は前朝鮮総督の宇垣一成を推奏、大命が降下した。大正末期から昭和の初めにかけて三代の内閣で陸軍大臣を歴任し、「宇垣軍縮」という大規模な陸軍近代化を実現して軍政家としての実力が各界から評価されていた宇垣だったが、これが逆に当時の陸軍に危惧を抱かせる結果となり、陸軍は陸軍大臣の推薦を拒否、宇垣は大命を拝辞した。あと一歩というところで泣く泣く大命を拝辞したことから「流産内閣」と呼ばれた。なお宇垣は陸軍軍人としては珍しい人気者で、後1953年 (昭和28年) の参議院選挙に全国区から出馬すると51万票もの票を得てトップ当選している。
[編集] 敗北
宮澤喜一
羽田孜