綿貫民輔
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| 生年月日 | 1927年4月30日 |
|---|---|
| 出生地 | 富山県東砺波郡井波町(現・南砺市) |
| 出身校 | 慶應義塾大学 |
| 学位・資格 | 経済学士 名誉博士(ボローニャ大学) 長老(神社本庁) 神職浄階(神社本庁) |
| 前職・院外役職(現在) | 富山県議会議員 |
| 所属委員会 ・内閣役職(現在) | 衆議院懲罰委員会委員 |
| 世襲の有無 | 2世(父・綿貫佐民) |
| 選出選挙区 (立候補選挙区) | 富山3区 |
| 当選回数 | 13回 |
| 所属党派(現在) | 国民新党(自由民主党→国民新党) |
| 党役職(現在) | 代表 |
| 会館部屋番号 | 衆・第2議員会館241号室 |
| ウェブサイト | 綿貫民輔 Official-WEB |
綿貫 民輔(わたぬき たみすけ、1927年(昭和2年)4月30日 - )は、日本の実業家、政治家。
衆議院議員(13期)。国民新党代表。禁煙推進議員連盟会長。昭和聖徳記念財団会長。慶應義塾大学出身。学位は経済学士。神職としての階位は浄階。平成研究会(小渕派、現・津島派)会長、自由民主党幹事長、衆議院議長(第70代)などを歴任。
自民党の重鎮であったが、郵政民営化関連法案を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成した。長男はトナミ運輸社長の綿貫勝介。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 経営者として
富山県東砺波郡井波町(現・南砺市)に父・綿貫佐民と母・かずの間に長男として生まれる。父は楠木正成の系譜を引く兵庫県淡路島の南家出身であり母が井波八幡宮の宮司をつとめる綿貫家の出身である。
旧制砺波中学校(現・富山県立砺波高等学校)を4年修了した後、藤原工業大学(現・慶應義塾大学理工学)に入学、慶應義塾大学経済学部卒。鐘ヶ淵紡績(現・カネボウ)入社ののち、1955年に28歳の若さで家業である砺波運輸(現・トナミ運輸)社長に就任。瀕死と言われた砺波運輸を立て直し、上場企業へ昇格させるなど経営手腕を発揮。その一方で、カルテルを内部告発した社員串岡弘昭に対し、報復人事として仕事らしい仕事を与えず、32年間、空き地の草むしりを主な業務として命じた。
[編集] 政界へ
1959年、富山県議会議員選挙に2度目の挑戦で初当選し、1969年には第31回衆議院議員総選挙に旧富山2区から自民党公認で出馬し、初当選。以後、連続当選13回。
衆議院議員当選後、当初は川島正次郎→椎名悦三郎派に所属。1973年には青嵐会の結成メンバーに名を連ねるが、会合には一度も出席せずに脱退した。
椎名派消滅後は田中角栄→竹下登→小渕恵三→橋本龍太郎派に移り、国土庁長官、建設大臣、自民党幹事長など要職を歴任。
竹下派分裂時、竹下・小渕らとも、羽田孜・小沢一郎らとも良好な関係にあった綿貫は、両派の間で板ばさみとなった。やがて同期当選組が多く参加していた羽田派の方へと傾くが、結局参加を見送り、小渕派へも参加せず無派閥を選択。羽田派が離党した後も義理を通し、3年ほど無派閥生活を送っていた。
1998年7月、小渕恵三の総理就任に伴い、空席となった平成研究会(小渕派)会長に就任し、派内のまとめ役に徹した。2000年7月、第70代衆議院議長に就任。2002年12月10日、議事進行原稿を一気に2枚めくったために、2000年度の決算採決という議題がまだ残っているにも関わらず散会宣言を行った。宣言直後に散会の無効を宣言したが、散会宣言は有効とされた。結局、決算採決は12日に行われた。
[編集] 小泉自民党との決別
自民党内で郵政族を中心に衆参両議院約200人が参加する「郵政事業懇談会」の会長として、小泉純一郎総理が唱える郵政民営化反対の急先鋒となった。2005年7月、衆院における郵政民営化関連法案の議決に際しては反対票を投じ、その後、第44回衆議院議員総選挙における党執行部の報復的な党公認拒否に対して反発、亀井静香とともに「国民新党」を旗揚げして代表に就任した。ちなみに、現在は長男が社長を務めるトナミ運輸は日本郵政公社が「ゆうパック」で提携している民間物流事業者の一つである。
また、富山県で代々井波八幡宮(南砺市井波)の宮司を務める名門家の出身で、自身も現職の神職である。神道政治連盟国会議員懇談会会長も務めており、2004年には神道に功績のあった神職に贈られる「長老」の号を神社本庁より受けている。
国民的知名度は最近になるまで低かったが、政界ではまとめ役として頼りにされてきた。新党結成後も自民党の議員と連絡を取り合っており、選挙後には自民非公認組を糾合した統一会派構想し、造反色が強い棄権組なども参加させようとした。しかし、選挙後で統一会派に参加している自民党非公認組は野呂田芳成だけであった。国民新党結成に伴い、自民党に離党届を出していたが、10月21日、自民党は届けを受理せず、綿貫を除名した。
小選挙区制の導入後、選挙区での史上最高得票による当選を達成するなど、選挙に強い政治家でもある(しかし、2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では勝利するものの自民公認の萩山教嚴に比例復活を許し、史上最高得票のタイトルも小泉純一郎に奪われた)。
2006年3月24日、堀江メール問題において、懲罰委員会で質問席に立つ。衆議院議長を経験者した重鎮議員が質問席に立ったことが異例なこととして注目された。
8月22日には、慶應大OBの親睦という名目で、民主党代表の小沢一郎に元自民党総務会長の堀内光雄などの郵政造反組との関係を強くしている。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
[編集] 政歴
- 1959年
- 富山県議会議員に当選。
- 1967年
- 第31回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)落選。
- 1969年
- 第32回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)1期目当選。
- 1972年
- 第33回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)2期目当選。
- 1976年
- 第34回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)3期目当選。
- 1979年
- 第35回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)4期目当選。
- 1980年
- 第36回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)5期目当選。
- 1983年
- 第37回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)6期目当選。
- 1986年
- 第38回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)7期目当選。
- 中曽根内閣で国土庁長官兼北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官に就任。
- 1990年
- 第39回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)8期目当選。
- 海部内閣で建設大臣に就任。
- 1991年
- 自民党幹事長に就任
- 1993年
- 第40回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)9期目当選。
- 1996年
- 第41回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)10期目当選。182185票。
- 1998年
- 平成研究会会長に就任。
- 2000年
- 第42回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)11期目当選。150200票。
- 衆議院議長に就任
- 2003年
- 第43回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)12期目当選。159316票。
- 2005年
- 自民党を離党、国民新党を結党(自民党は除名処分)
- 同年 第44回衆議院議員総選挙(富山3区、国民新党)13期目当選。120083票。
[編集] その他
[編集] 衆議院議長の肖像画
2004年から、衆議院議長応接室に綿貫の肖像画が飾られているが、絵の作者が作品酷似問題で注目された和田義彦だったため波紋を呼んでいる。
衆議院では衆議院議長経験者の肖像画を院内に掲げるのが慣例となっている。衆議院事務局は「盗作画家」の作品掲示が院の権威に響くことを懸念しているが、憲政史上前例がなく、対応に苦慮している。綿貫事務所は、画家の不祥事と肖像画は直接関係ないとのスタンスを取っている。綿貫本人は、マスコミの取材に対し、「美術界に詳しくないので、コメントしようがない」と語り、困惑している。
[編集] 慶應義塾評議員
慶應義塾評議員会(慶應義塾の経営面における最高意思決定機関)の一議員の職を務める。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『国土づくり・100年-ジャパンからニッポンへ』(綿貫民輔国土活性化問題研究会、ぎょうせい、1991年、ISBN 4324023093)
- 『至誠天に通ず-建設行政の新時代 建設大臣の305日』(ぎょうせい、1991年、ISBN 4324027048)
- 『土地は、誰のものか。-地価再考』(長谷川徳之輔との共著、集英社、1993年、ISBN 4087830756)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 綿貫民輔 Official-Web(公式サイト)
- 国民新党ホームページ
- 損害賠償金等請求事件判決(通称・トナミ運輸損害賠償)
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