精神分析学
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精神分析学(せいしんぶんせきがく)は、ジクムント・フロイト(Sigmund Freud)によって創始された人間心理の理論と治療技法の体系を指す。広義には、フロイト以後の分派を含めた理論体系全体も指す。
20世紀初頭から中葉にかけて、心理学、精神医学はもとより、人文・社会諸科学や文化・芸術に多大な影響を及ぼした。
20世紀後半になると、科学哲学、新行動主義心理学、生物学的精神医学、脳科学などから、精神分析の科学性、客観性、治療法としての有効性に疑問が投げかけられるようになる。抗精神病薬としてのクロルプロマジン「再発見」以来、精神疾患への薬物療法が発達し、精神分析療法で改善が見られない患者が治療できるようになると、精神医学領域における影響力は徐々に衰えていく。精神分析の影響が大きかったアメリカにおいても、1980年のDSM-III(精神疾患の診断と統計の手引き)以降、神経症の概念が解体される方向に向かい、患者の希望した薬物治療を拒否して精神分析に専念した治療者が、患者との裁判で敗訴したこともあって、精神分析医の数は減少した。
近年、精神医学が薬物療法や、生物学的理論に偏りすぎたことへの反動として、また、摂食障害や人格障害などの薬物療法のみでは治療が困難な疾患については、精神分析の影響が限定的な認知行動療法が適用されつつある。そのため、日本国内においては、精神科の臨床でフロイト当時のままの精神分析療法を使う医師はほとんどいない。ただし、精神科医や臨床心理士などが患者理解のために精神分析の概念を援用することはあるし、口語版精神分析とも呼ばれる交流分析が心療内科や看護、介護の領域で活用されているという現実もある。また一般の人々が抑圧やコンプレックスといった精神分析由来の概念を使用(あるいは誤用)して、自分や他人の行動や心の動きを説明することも、日常生活のなかでよく見聞きする。
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[編集] 概略
フロイトによれば、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説に基づいている。フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた。
[編集] パーソナリティ理論
- 局所論
- 構造論
- 心理性的発達段階
[編集] フロイト治療過程で生じるとされる現象
フロイトは治療において、患者と治療者の間でいくつかの特徴的な現象が観察されるとしている。
- 転移(Transference)- フロイトは、面接過程において、患者が過去に自分にとって重要だった人物(多くは両親)に対して持った感情を、目前の治療者に対して向けるようになるという現象を見いだした。これを転移(または感情転移)という。転移は、患者が持っている心理的問題と深い結びつきがあることが観察されたことから、その転移の出所を解釈することで、治療的に活用できるとされた。転移の解釈は、精神分析治療の根幹とされている。
- 逆転移(Counter Transference)- フロイトは、治療者の側に未解決な心理的問題があった場合、治療場面において、治療者が患者に対して転移を起こしてしまう場合があることを見いだした。これを逆転移という。フロイトは逆転移は治療の障害になるため排除するべきものであり、治療者は患者の無意識が投映されやすいように、白紙のスクリーンにならなければならないと考えた。しかし、そうした治療者の中立性に関しては、弟子の中にも異議を唱えたものが多かった。
現代の精神分析では、逆転移の定義はさらに広げられ、面接中に治療者が抱く感情の全てを含むものになっている。そして、逆転移の中には患者側の病理によって治療者の中に引き起こされる逆転移もあり、そうした逆転移は治療的に活用できるとする考えが主流を占めるようになっている。
- 抵抗(Resistance)- 心理的問題の解決のために治療者のもとを訪れたにも関わらず、患者が治療過程が進むことを無意識的に拒んでしまうことを抵抗という。これは、無意識に目を向けることには苦痛が伴うために起こると考えられている。この抵抗をいかに乗り越えるかが、治療過程の重要な局面となる。
- 退行(Regression)- 高度に発達した精神が、以前に経過してきた地点に回帰する現象を指して言う。退行の原因にはいろいろあるが、固着と大きな関係があるとされている。固着はリビドーの相当の量がある発達段階に残されて来ている事を意味するので、固着が強い人ほど内的や外的圧力に容易に屈し、その時点に退行しやすくなり、それだけ自我が脆弱だと言える。健康な人間でも睡眠時、食事、排便時、入浴時などリラックスできる時には軽い退行が起きる。健康な退行と病的な退行は、その固着点から正常な精神状態に立ち返る事が出来るかどうかで決まる。また、面接過程において自然と精神は未熟な精神の発達段階に退行する事がわかっており、これを治療的退行と呼び、精神分析の治療に欠かせない要素となっている。治療的退行時には患者が平生感じることのない感情や衝動に駆られる事が多い。
[編集] フロイト治療の技法
- 自由連想法 - 患者が寝椅子などに横たわり、リラックスした状態で、何気なく心に浮かんできたあらゆることを言語化して語るように要求されるという方法の事。たとえば、窓の外の雲から空を連想し、空から水色が浮かび、といった連想を、患者が治療者に語るもの。
このような方法により、過去に抑圧された無意識の内容が表出され、現在の症状が解消するというのが、フロイトの考え方である。フロイトは当初、無意識を意識化する方法として、催眠を取り入れていたが、催眠の効果には個人差が大きく、またいったん症状が消失しても、後に再びもとの状態に戻ってしまうことを経験したので、フロイトは自由連想法を考案した。現在の精神分析では、対面による対話においても自由連想法と類似の効果があると考えられるようになったため、寝椅子を用いた自由連想法が使われることは少なくなっている。
- 解釈
- 徹底操作
- 夢分析
[編集] フロイト以後の精神分析
狭義には、精神分析はこのフロイト理論のみを指すが、広義には、フロイト理論の流れをくんだ様々な分派を総称して指す。フロイト以後、彼の弟子たちはそれぞれの視点からフロイト理論を批判し、新たな理論を発展させていった。対象とする疾患も、フロイトが主に取り組んだ成人の神経症にとどまらず、子供、老人、精神病、境界例へと広がっていった。発達障害や精神病圏の患者に対してはその成果は芳しくなかったが、境界例に対してはその理解を飛躍的に進展させる成果をあげている。
フロイト以後の分派は、古典的フロイト派、自我心理学、新フロイト派、対象関係論、自己心理学が代表的である。
[編集] フロイトからの離反者
[編集] 精神分析への批判
精神分析学は、カール・ポパー、Adolf Grunbaum、Mario Bunge、Hans Eysenck、Ludwig Wittgenstein、Hans Israels、Richard Webster、Peter Medawar、Ernest Gellner、Frank Cioffi、Frederick Crews、Arthur Janov, William Sargantを初め、数多くの人々に批判されている。 ポパーは精神分析学が反証可能性を持たないと批判した<ref name="Popper">Popper KR "Science: Conjectures and Refutations", reprinted in Grim P (1990) Philosophy of Science and the Occult, Albany, pp. 104-110. See also, Conjectures and Refutations</ref>し、 Grunbaumにいたっては、精神分析学は反証可能性をもつ---なぜならそもそも精神分析学は全くの間違いであるから---と批判した。 Janovは防衛を強化してるに過ぎない感情的プロセスの分析なのだと主張した。
心理学の他の学派の研究者達は、行動療法、認知療法、ゲシュタルト療法、原初療法、来談者中心療法等、精神分析に変わる、他の心理療法を生み出した。 様々な心理療法がある事の重要な帰結は、異なる学派の心理療法の専門家は他の学派の心理療法の専門家を批判している、という事である。
様々な精神分析手法の理論がある故、全ての理論を批判する事は難しく、 いくつかの批判は一部の理論でしか採用されていないアイデアにしか当てはまらないものにならざるを得なかった。 実際、精神分析学を擁護する人達は、(例えばフロイトに対するフェミニスト達の批判のように)、 「批判者は一部のアイデアのみを批判している」と主張している。 それに対し精神分析学の批判者達には、精神分析学が科学的でないと批判するものがおり、彼らによれば、精神分析学は疑似科学にすぎない。
[編集] 科学的妥当性
精神分析学に対する初期の、だが重要な批判として、精神分析学が定量化や実験にほとんど基づいておらず、理論の大半が病院でのケーススタディに基づいている、というものがある。 それに対し、行動療法や認知療法といった他の心理療法は実験的妥当性をもっと考慮している(Morley et al. 1999)。 なかには、フロイトの治療業績のいくつかは、---Anna Oの有名な奇跡すら---、捏造であると告発する者もいる(Borch-Jacobsen 1996)。
精神分析学の概念を定量的かつ学術的に分析している心理学者や精神科医の中には、 この種の批判をするものが増えている。 科学的研究に関するサーベイが示すところによれば、フロイトのいう 口唇期、肛門期、エディプス期、 男根期がパーソナリティの傾向として観測されるものの、 これらが子供の発達段階として現れる事も観察できないし、子供時代の経験が成人してからの傾向に影響する事も観察できない。(Fisher & Greenberg, 1977, p399).
しかし、こうした発達段階に対する批判が、近代精神分析学に対する決定的な批判だと思ってはならない。
近代精神分析学の理論と実践にとっての決定的な批判になり得るのは、無意識や感情転移に対するものである。
「無意識」の概念に対する疑念として、人間の行動なら観察できるが、人間の心理は推測しかできない、というものがある。
しかし無意識は、学部生や大学院生のレベルの実験心理学や社会心理学にとってホットなトピックである。
(例えば、implicit attitude measures、fMRI、PET scansなどのindirect test)。
読者のなかには、科学者がいまだに心を「ブラックボックス」として取り扱っている事に驚く人もいるかもしれない。 近年、心理学は無意識の考えを迎え入れた。 厳格な行動主義者ですら、大量の古典的条件付けが無意識によるもので、それが我々の感情の奥底の影響である事を認めている。
無意識や感情転移の概念に対しては大量の研究があり、認知心理学者や社会心理学者はその妥当性を認めている。ただし、それに対する批判もなされているが。
神経科学の近年の成果は、 精神分析学の理論にそった形での無意識的過程の存在に生物学的根拠を提供したが、 こうした発見は同時に、精神分析学を時代遅れかつ不必要なものにした。
指導的なアメリカ人精神科医であるE. Fuller Torreyは、その著書「Witchdoctors and Psychiatrists」(1986)の中で、精神分析の理論は伝統的な土着の「呪術医」やErhard Seminars Training(EST)のようなオルタナティブな近代「カルト」と同程度にしか科学的根拠がない、と述べている。 実際、精神分析学が疑似科学に過ぎないとみなしている科学者の数は増えている。(Cioffi, F. 1998).
科学哲学者のカール・ポパーは、フロイトの理論は反証可能性を満たさない事を批判した。 ポパーはある種の精神的プロセスが無意識のうちに行われる事自身は批判しなかったが、精神に対する調査研究が反証可能な方法で行われていない事は批判した。 いいかえると、フロイトの無意識に関する理論に関する考え得る全ての実験的結果が統 合可能なら、いかなる実験結果も理論を否定しないはずなのである。
人類学者のロイ・ワグナー(Roy Wagner)は、彼の古典的な仕事「The Invention of Culture」の中で、 精神分析学をからかい、パーソナリティと感情的混乱 とを、「発明と慣習」(invention and convention)の言葉で説明した。 <ref>John M. Ingham [Simplicity and comp lexity in anthropology]. On the Horizon 2007 Volume: 15 Issue: 1 Page: 7 - 14</ref>
(以下翻訳中)
[編集] 精神分析の非客観性・非科学的側面
科学において最も重要視されるものの一つは客観性である。 この為科学では数値化された客観的データに基づいて客観的な実証を重ね、客観的な理論を組み立てる事が求められる。
しかし精神分析学ではより人文科学的な研究スタイルを取っており、 患者の発言内容や表情から治療者の受ける印象のような主観的情報を数値データの代わりに用いて理論を構築している為、 客観的な実証性を確保しにくい。
ジャック・ラカンは精神分析に数学を持ち込もうとしたが、全くのでたらめであったため失笑を買った。 また科学の重要な特徴である反証可能性を精神分析が持たない事も批判にさらされる。 たとえば精神分析医が患者に自分の解釈を説明する際、たとえ患者がその解釈に反論したとしても、それは 患者が自分の感情を抑圧していると見なされるので分析医が正しいことになるし、患者がその解釈に賛成すれば当然分析医は正しい事になる。 すなわち、患者が分析医の解釈を肯定しようが反論しようが、分析医が正しいという結論に達してしまうのである。 よってたとえ精神分析学が間違っていようとも、その間違いを指摘する方法が無いのである。
実際エス、自我、超自我、意識、前意識などの概念は脳科学や認知心理学などの視点から見ても妥当な概念だと考えられるものの、抑圧や無意識のような概念はこれらの学問では妥当性を疑われている。
こうした反証可能性の無さは占いなどの疑似科学の多くが共通して持つ特徴である為、 この事は精神分析学が疑似科学であるという根拠として取り上げられる。 実際科学哲学者のカール・ポパーは、反証可能性を持つかどうかを「真の科学」であるかどうかを見分ける基準として提唱しており、 それ故彼は精神分析学は科学ではなくて疑似科学に過ぎないと断じた。
もっとも、いかに反証可能性が科学にとって重要な特徴であるとは言え、科学と疑似科学の差位は段階的なものである為、 近代の科学哲学者の多くは科学と非科学を明確に線引きする事は不可能だと考えており、 例えばデュエムやクワインは「ある仮説を反証する決定的な実験などはそもそも存在しない」と主張している(デュエム-クワイン・テーゼ)。ただし、ポパーはこのテーゼに対する再反論も行なっている。
[編集] 治療上の有効性
コクランライブラリーは現時点で産後うつ病に対する精神力動的精神療法の効果について、「治療効果がありそうだ」としている。この結果は(個人)認知行動療法、個人精神療法、非指示的カウンセリングと並んでいる。またグループ認知行動療法、光療法、母子交流指導、配偶者とともに行う心理教育、電話による母親同士のピアサポートの効果について、「効果は不明」としているところから、少なくともそれらのアプローチよりも優先されるべきである。
また医療界において費用対効果という観点も重要視されるようになっており、有効性のみならず、他の治療と比較したときの経済性についても検討が必要である。このように精神分析の有効性についてはまだ結論を下せる段階にないが、現在世界各地で臨床研究がなされている。
[編集] 法律上の批判
催眠などを用いた回復記憶セラピー(2000年頃までに停止)による性的虐待の訴訟で証拠不十分として多くの精神分析医が敗訴した。
[編集] 脳科学からの批判
近年は脳科学が劇的に進歩したため、精神医学も脳による説明を求められるようになったが、精神医学が経験則や現象学的な考えから成り立っている上、脳科学自体が発展途上にあるという事情もあり、未だ説明が不十分でない。精神分析の用語には脳科学的な妥当性を持つものは無く、無理に認知心理学などの用語に置き換える場合もあるが、それも不可能であるケースが多い。
[編集] 精神分析による他分野研究の危険性
精神分析を医学以外の分野に応用した際に精神分析の誤りが露呈してしまう事がある。
例えばフロイト自身が『トーテムとタブー』という人類学の研究書を書いたが、リヴァース、ボアズ、クローバー、マリノフスキー、シュミット、そしてレヴィ=ストロースといった人類学者達はこれを馬鹿げてると公言してはばからなかったし、権威ある宗教学者エリアーデによると、この本は研究書というよりも「手におえないゴシップ小説」で、書かれている事も「気違いじみた仮説」にすぎないと断じた。 (『オカルティズム・魔術・文化流行』、ミルチア・エリアーデ)。
また精神分析学者のエーリッヒ・フロムやブルーノ・ベッテルハイム等は赤ずきんはじめとしたメルヘンを読んで精神分析的解釈をし、民間伝承や民俗学に関して様々な考察をしたが、これらは間違ったものが多かった。 なぜなら今日知られている「赤ずきん」の話のディティールの多くはシャルル・ペローが創作したものであって歴史が浅いので、それを読んでも民俗学的知識が得られるはずがなかったのである。 例えば「赤ずきん」に出てくるずきんの赤さをフロムは「月経の血」、ベッテルハイムは「荒々しい性的衝動」と解釈したが、ずきんを赤くしたのはペローのアイデアであった。
また相互に矛盾した解釈も多く、白雪姫の中で白雪姫が逃した狩人はベッテルハイムによれば「エディプス期の少女にとっての理想的な父親像」であったが、ビルクボイザーによれば「女性の心中にある男性的性質」であったし、七人の小人はベッテルハイムによれば「白雪姫という太陽の回りをまわる七つの惑星」であるが、ビルクボイザーによれば小人達は「深みに隠れた財宝(=王子)を探す創造的行為」の象徴であった。
メルヘン学者のダーントンは彼らを批判し、「精神分析学者のフロム氏は存在しない象徴を超人的な敏感さで嗅ぎとって、架空の精神世界へ我々を導こうとした」と述べた。 (参考:鈴木晶『グリム童話』。ダーントンの言葉はこの本から引用)。
[編集] 人文学的一般教養としての精神分析
以上のように、臨床療法としての精神分析は、現在では医学の世界では広い支持を得ているとはいえないものの、思想家としてのフロイト、思想としての精神分析学理論は人間理解、人文諸学、心理学などにおいて現代でも依然として影響力を持ち、世相や文化、芸術作品や犯罪など様々な事象の理解や批評に援用される。
そのことに注目した現代哲学者のミシェル・フーコーなどは精神分析を純粋な学問とはいえない一種のリベラル・アート(liberal art=一般教養)のようなものと捉えるべきだと主張している。
[編集] 関連項目
[編集] 出典
<references />
[編集] 参考文献
- トリグベ・ブラトイ. 精神分析技法の基礎(現代精神分析双書 ). 岩崎学術出版社. 1971年
- 馬場礼子. 精神分析的心理療法の実践 クライエントに出会う前に . 岩崎学術出版社. 1999年
- 北山修. 精神分析理論と臨床. 誠信書房. 2001年
- 小此木啓吾. 現代精神分析の基礎理論(精神医学叢書 ). 弘文堂 . 1985年
- 小此木啓吾. 精神分析の成立ちと発展(精神医学叢書 ). 弘文堂 . 1985年
- Leichsenring F, Leibing E. The effectiveness of psychodynamic therapy and cognitive behavior therapy in the treatment of personality disorders: a meta-analysis. Am J Psychiatry. 2003,160,pp1223-32
- 古川壽亮. エビデンス精神医療:EBPの基礎から臨床まで. 医学書院. 2000年
- ハンス・アイゼンク 『精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落』 ISBN 4891750855 ISBN 4826502281
- ロルフ・デーゲン 『フロイト先生のウソ』 (原題=『心理学間違い事典』)ISBN 4167651300
- ポール・リクール『フロイトを読む--解釈学試論』.新曜社.1982年
- 矢幡洋『危ない精神分析―マインドハッカーたちの詐術』
- ロフタス&ケッチャム『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』
[編集] 外部リンク

