米墨戦争

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米墨戦争(べいぼくせんそう、Mexican-American War)は1846年から1848年の間にアメリカ合衆国メキシコ(墨西哥)の間で戦われた戦争。アメリカではメキシコ戦争 (Mexican War) として知られている。メキシコでは、アメリカのメキシコ侵略 (North American Invasion of Mexico) 、アメリカの対メキシコ戦争 (United States War Against Mexico) 、北部の侵略戦争 (War of Northern Aggression) として知られている(なお最後の名称は、アメリカ南部では南北戦争を指すことが多い)。 スペイン語では北米の武力干渉 (Guerra de Intervención Norteamericana) という。

目次

[編集] 背景

米墨戦争はテキサスの所属をめぐっての、アメリカとメキシコとの衝突に起因する。スペインの植民地支配から独立革命を経て独立したメキシコは、第1次メキシコ帝国と共和国の時代を通じて、ずっとメキシコ北部の領地一帯を保持していた。しかし16世紀から続くネイティブアメリカンの群発する反乱は継続しており、とりわけ1803年ルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやくすなった多くのアメリカ人が、メキシコ領に流入していた。しかし、長期戦になった独立革命で弱体化したメキシコには、北方の領地を統治する余裕が人的にも金銭的にもなかった。

[編集] テキサス共和国

サンタ・アナによる中央集権体制は、メキシコ各地での反発を招き、各地で独立の機運が発生した。1836年テキサス共和国はメキシコからの独立を勝ち取った。後の1845年に、テキサス共和国はアメリカに併合された。しかし、メキシコ政府はまだテキサスをアメリカ合衆国の一州であることはおろか、その条約(ベラスコ条約)締結の経緯が不公正なものであるとしてテキサス共和国独立に関してすら認めていなかった。さらに、「テキサスを併合したら戦争だ」と折に触れて警告し続けていた。

アメリカはこの地域での英国の野心を断ち切るために、太平洋岸のカリフォルニアに自国の港を持ちたかった。このためテキサス併合と同じ年、メキシコ領カリフォルニアおよびニューメキシコを購入したいと申し出た。しかし当時メキシコ国内は混乱が続いており、例えば1846年一年間だけで大統領は4回、戦争省は6回、財務省にいたっては16回の交代が行われ、交渉団を迎え入れたエレラ大統領は反逆罪で訴えられ追放されるなど、交渉どころではなかった。また、メキシコ世論も買収申し出に猛反発した。そして、マリアーノ・パレデス大統領のもと、より国家主義的色合いの強い政府が成立したのを見届け、交渉団は引き揚げた。

[編集] 勃発

テキサスを併合したアメリカは、メキシコとの国境をリオグランデ川 (Rio Grande) 以北としていた。一方メキシコは同様にリオグランデ川の北側を流れるヌエセス川 (Nueses River) 以南としており、両国の主張には相違があった。時のアメリカ大統領ジェームズ・ポークは、アメリカの主張するテキサス州の土地を確保するよう軍に命じた。これを受けたザカリー・テイラー将軍の率いる軍隊は、ヌエセス川を南に超えて、メキシコの非難にも関わらずブラウン砦 (Fort Brown) を築いた。1846年4月24日にメキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘状態となった。パロアルト (Palo Alto) およびレサカ・デ・ラ・パルマ (Le Saca De La Palma) での国境衝突および戦闘の後に、連邦議会5月13日に宣戦を布告した。南部出身者と民主党がそれを支持した。一方北部出身者とホイッグ党員は一般に、戦争の宣言に反対した。メキシコは5月23日に宣戦を布告した。

アメリカの宣戦布告後、アメリカ軍ロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領した。モンテレーの戦いは1846年の9月に起こった。1847年2月22日、ブエナビスタの戦いでテイラー将軍がアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍配下のメキシコ軍を破り、カリフォルニアとニューメキシコの占領を確実なものにした。ウィンフィールド・スコット将軍配下のアメリカ軍は、海上からベラクルス(大西洋岸)を攻略、引き続きセロゴルド(メキシコ中部)と進撃し、メキシコの中心部チャプルテペック城(メキシコシティ)も攻め落とした。(進撃は3月9日に始められた)

[編集] 終結

1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了した。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダユタと、アリゾナニューメキシコワイオミングコロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えた。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払った。

このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになる。

[編集] 戦闘員

アメリカ軍兵士は戦争中13,000名が死亡したが、このうち戦闘で死んだのは約1,700名で、その他90%近い兵士は黄熱などの疾病で死亡した。メキシコ軍の死傷者は25,000名と見られている。

この戦争は、両国の銃火器の差が決定的だった。アメリカが最新の国産ライフル銃を使用したのに対して、メキシコ軍はナポレオン戦争からのイギリスの小銃を使用していた。

戦争の興味深い側面は聖パトリック大隊(サン・パトリコス)であった。メキシコ側を支持してアメリカ軍籍を放棄した500人のアメリカ人によって構成された。その大部分はアイルランド生まれであった。何人かの歴史家は、これらの人が捕虜だったと主張する。他のものは、彼らが反逆者と遺棄者だったと主張している。メキシコには現在これら兵士の多くの記念碑がある。

スティーブン・W・カーニー将軍とカリフォルニアへの行軍を共にしたモルモン大隊は、ソルトレイクシティモルモン教徒で構成された、アメリカ軍の歴史の中で唯一の「宗教の」部隊として知られる。彼らはユタ州へのモルモン教徒の移住を助けるために組織された。

アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、退役軍人の最後の生き残りオーエン・トマス・エドガー (Owen Thomas Edgar) は、1929年9月3日に98歳で死去した。

[編集] 関連項目

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