第2ニカイア公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

公会議
第1ニカイア公会議
第1コンスタンティノポリス公会議
エフェソス公会議
カルケドン公会議
第2コンスタンティノポリス公会議
第3コンスタンティノポリス公会議
第2ニカイア公会議
第4コンスタンティノポリス公会議
第1ラテラン公会議
第2ラテラン公会議
第3ラテラン公会議
第4ラテラン公会議
第1リヨン公会議
第2リヨン公会議
ヴィエンヌ公会議
コンスタンツ公会議
バーゼル公会議
フィレンツェ公会議
第5ラテラン公会議
トリエント公会議
第1バチカン公会議
第2バチカン公会議

第2ニカイア公会議(だい2 - こうかいぎ)は、787年小アジアニカイア(二ケア)で開かれたキリスト教公会議。第7回世界公会議、第七全地公会ともいう。聖像破壊運動および聖像破壊論者を否定した。

[編集] 経緯

東ローマ帝国イサウリア朝皇帝レオーン3世730年に発令した聖像崇敬禁止命令は、広範な反対運動を引き起こしたが、皇帝は実力でこれを抑圧。754年の教会会議もこれを追認する形になった。次の皇帝コンスタンティノス5世もこれを引き継ぎ、反対者は処刑された。

しかし、長年培われた民衆の信心というものは皇帝の命令1つで変えられるものではない。東ローマ帝国内のヨーロッパ側の民衆や聖職者の反感が高まっていたため、その後を継いだコンスタンティノス6世を後見した母であるアテネ出身の皇后エイレーネーはこの情勢を配慮し、聖像崇敬禁止を撤廃しようと考えた。こうして開かれたのが第2ニカイア公会議である。この会議の結果、聖像崇敬は聖像や聖画そのものを拝んでいるでなく、それによって表現される神的なものの原像に心を馳せるものであるから偶像崇拝ではないという理論的裏づけによって聖像破壊運動は否定された。

聖像破壊運動は西方地域ではほとんど行われなかったため、この公会議は西方地域に対しては大きな影響を持たなかった。これはすでにヨーロッパにおいて西方と東方の格差が大きくなっている現実をしめすものであった。

なお東方正教会では、この第2ニカイア公会議までを正当な公会議(全地公会)としている。

[編集] 外部リンク


前の公会議:
第3コンスタンティノポリス公会議(680年)
歴代の公会議次の公会議:
第4コンスタンティノポリス公会議869年

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB