第二次中東戦争

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第二次中東戦争(スエズ戦争)

戦争: 第二次中東戦争
年月日: 1956年10月29日から1957年5月
場所: 主にシナイ半島
結果: エジプト軍は負けていたが、スエズ運河はエジプトに譲ることになった。
交戦勢力
エジプト イスラエル
イギリス
フランス
指揮官
戦力
   
損害
死者

死者
</br>
パレスチナ問題
アラビア語:قضية فلسطينية
ヘブライ語:פלשתינאי הסכסוך הישראלי
戦争
中東戦争
第一次 第二次 第三次 第四次
国家
イスラエル パレスチナ自治区
国際連合 アメリカ
地域都市
パレスチナ エルサレム テルアビブ
宗教
イスラム教 サマリア人 キリスト教 ユダヤ教
主義
シオニズム イスラム原理主義
文書
バルフォア宣言 フサイン=マクマホン協定
サイクス・ピコ協定 パレスチナ分割決議
団体
ハマス リクード
人物
パレスチナ人の一覧 イスラエル人の一覧
ナセル ラビン ヤセル・アラファト

中東戦争の全体については、中東戦争を参照

第二次中東戦争だいにじちゅうとうせんそう)はスエズ危機あるいはスエズ戦争として知られるエジプトイスラエルイギリスフランススエズ運河を巡って起こした戦争

目次

[編集] 背景

[編集] スエズ運河

スエズ運河フランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは破綻、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡された。エジプトはイギリスの財政管理下におかれ、後に保護国となった。運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点であり、その重要性は2つの世界大戦によって証明された。第一次世界大戦時、運河は英仏によって枢軸側の船舶通行が禁止された。第二次世界大戦時は北アフリカ戦役において粘り強く防衛された。

[編集] エジプト革命

1952年に軍事クーデタで政権を掌握した自由将校団は、ナギーブ将軍を大統領に擁立すると、翌年に国王を退位させ共和制へと移行させた。また、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍を撤退させる協定を結ばせる一方で、米ソ二大国のどちらにも関わらない非同盟主義にたつなどアラブ世界の糾合に努めた。しかし、アメリカ合衆国がイスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的だったこともあり、東側陣営のチェコスロヴァキアから新式の兵器を購入すると、西側諸国との関係が悪化してアメリカ合衆国などからアスワン・ハイダム建設資金の融資を拒否されるという報復を受けた。こうした中、1956年に大統領に就任したナセルが示したのが、スエズ運河の国有化であった。

[編集] 戦争の推移

第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日~5日)

[編集] 戦争計画

無論、ナセルの国有化計画は、スエズ運河を利権として、莫大な通行料収入を得ていたイギリス・フランスの受け入れるところではない。英仏両国政府はエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策したが、第二次世界大戦以後、かつてのような侵略目的の戦争は非難を浴びる社会となっていたことから、英仏が目をつけたのが第一次中東戦争でエジプトと敵対していたイスラエルであった。

まず、イスラエルをエジプトに侵攻させる。イスラエルはエジプト革命の際にも攻撃しており、激怒したナセルはイスラエルのインド洋への出口アカバ湾を軍艦を持って封鎖し、イスラエル経済に打撃を与えていた。しかし開戦の理由にはちょうど良かった。

イスラエルがシナイ半島へ侵攻したところで、英仏政府が兵力引き離しのためにイスラエル・エジプト両軍をシナイ半島から撤退するように通告する。当然どんな国も自国領土から撤収するはずがないので、エジプトへの制裁を目的として英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ追い払った上で、平和維持としてスエズ運河地帯に駐留する、という筋書きであった。

英仏イスラエルは事前に調整を重ね、10月末の実行が決定した。英仏の海軍艦隊が地中海エジプト沿岸に派遣され、侵攻を待った。

[編集] イスラエルの侵攻

1956年10月29日、イスラエル国防軍は国境を越えてシナイ半島へ侵攻を開始した。第一次戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。そして侵攻開始から1日を経ないうちに英仏が筋書き通りに停戦と兵力引き離しを通告した。ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通行不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケードを築いたのである。

英仏軍はこれを受け、11月5日、地中海艦隊にシナイ半島への侵攻を命じた。さらに英軍は落下傘部隊を持って、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。

[編集] 停戦と撤退

エジプトの降伏は目前かと考えられたが、ここでアメリカ合衆国が、冷戦で対立していたソ連とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。連合国として賛成すると考えていた米国がエジプト側に回ったことは、侵攻3カ国にとって大きな誤算であった。これにより、英仏イスラエル対アメリカという構造になってしまった。ここで、カナダの当時外相ピアソンが、PKOの提案を国連にし、英仏は名誉を持って撤退が可能になったのである。ピアソンは翌年にノーベル平和賞を受賞した。

[編集] 戦後

結局、英仏はスエズ運河を失い、英国首相アンソニー・イーデンは敗戦の責任をとらされる形で辞職に帰着した。米国は、ナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたのだが、しかし英仏軍撤退の瞬間に、米国が欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。対してエジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、アラブ世界でのエジプトの発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃した。4月にはスエズ運河の通行を再開した。しかし、英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として、5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前までになった。また、フランスも米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。

[編集] 関連項目

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