第二次世界大戦
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| 第二次世界大戦 | |
|---|---|
| 戦争: 第二次世界大戦 | |
| 年月日: 1939年9月1日から1945年9月2日 | |
| 場所: 主にヨーロッパ・アジア太平洋 | |
| 結果: 連合国の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 連合国 ソビエト連邦 アメリカ合衆国 イギリス 中華民国 など | 枢軸国 ドイツ 大日本帝国 イタリア王国 ハンガリー王国 など |
| 指揮官 | |
| ヨシフ・スターリン F・ルーズベルト W・チャーチル 蒋介石 | アドルフ・ヒトラー 東条英機 B・ムッソリーニ ホルティ・ミクローシュ |
| 戦力 | |
| 損害 | |
| 死者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説あり) | 死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説あり) |
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦争」といった場合、第二次世界大戦を指すことが多い。
目次 |
[編集] 概要
大日本帝国、ドイツ、イタリア王国など後発資本主義国によって構成される枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦などが構成する連合国の間の世界規模の戦争。ヨーロッパでは、1939年9月1日早朝(CEST)、ナチスドイツのポーランド侵攻およびイギリス・フランスがドイツに対して宣戦を布告したことより始まった。アジアおよび太平洋では、1941年12月8日(JST)に日本が当時アメリカの自治領であったハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカに宣戦布告したことにより始まった。
初期は枢軸国側が優勢に駒を進め、ドイツ軍が一時的にヨーロッパ大陸諸国を占領、1940年6月にはパリを占領した。1941年に独ソ不可侵条約を一方的に破棄、ウクライナなどに侵入し、独ソ戦が始まった。日本は当初、阿部信行内閣において、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし大戦への不介入方針を掲げたが、阿部内閣総辞職後、松岡洋右らの親独派が中心となって日独伊三国軍事同盟を結んだことによって完全に枢軸国側に立つことになった。つづいて日ソ中立条約によってソ連も含めた四国同盟を模索したが、独ソ戦の開始によってその構想は画餅に帰し、ソ連は連合国側に立って参戦することとなった。1941年12月に、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が勃発。1942年以降は連合国側が優勢に転じ、1943年にスターリングラードでドイツ軍が全滅し、アメリカ・イギリスの連合軍が北アフリカに上陸したことでイタリアが降伏。1945年5月にアメリカ・ソ連・イギリス軍のベルリン占領によりドイツが降伏。同年8月には日本に原子爆弾が投下され、更には日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連が参戦したことで日本が降伏。日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結することになった。
[編集] 陣営
主要国のみ/植民地は除く
| 連合国 | 連合国(←枢軸国) | 枢軸国 | 中立国 |
|---|---|---|---|
| イギリス | イタリア サロ政権は除く | 日本 | スペイン |
| ソビエト連邦 | ルーマニア | ドイツ | ポルトガル |
| アメリカ合衆国 | フィンランド 対ソ単独講和 | イタリア | スイス |
| 中華民国 | タイ王国 | ハンガリー | スウェーデン |
| フランス(自由フランス) | ブルガリア | 満州国 | トルコ |
| オランダ | スロバキア | タイ | イラン |
| ベルギー | - | フランス(ヴィシー政権) | サウジアラビア |
| デンマーク | - | 中華民国(南京)国民政府 | アフガニスタン |
| ブラジル | - | ルーマニア | バチカン |
| メキシコ | - | クロアチア 大戦中に一時独立 | アイルランド |
| キューバ | - | - | - |
| オーストラリア | - | - | - |
| ノルウェー | - | - | - |
| 南アフリカ | - | - | - |
| ポーランド | - | - | - |
[編集] 原因
第二次世界大戦の起因は、主として世界恐慌以来の世界経済の解体とブロック経済間の相克にあるといわれている<ref>油井大三郎・古田元夫著、『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 p.191</ref>。アメリカ合衆国は、1920年代にはすでにイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立しており、第一次世界大戦後の好景気を背景として、国内には国家財政の安定に対する絶対的な信頼と楽観主義が広がっていた。これによりかえって生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。当時、ヨーロッパ各国の銀行の多くは戦時債務や戦後復興における融資先としてアメリカの銀行と密接な関係を持っており、そこからアメリカ資本が撤退することは、すなわちヨーロッパ経済の危機を意味していた。その後、恐慌に対する対応として英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとしたが、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアはこのような状況に絶望感と被害者意識をつのらせ、こうした状況をつくりあげたヴェルサイユ体制そのものを憎悪した。ファシズム運動が、現状打破のために擬似革命的性格と強大な国家権力とを指向した所以である。ファシズム政権が成立した後のドイツは再軍備宣言、ラインラント進駐を皮切りにオーストリアを併合、チェコを解体、最終的にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。
日本は第一次世界大戦の戦勝国として民主化<ref>大正デモクラシーを参照のこと。</ref>と英米との協調外交とを指向していたが、満洲および蒙古<ref>両方を合わせて満蒙(まんもう)と言った。</ref>の支配権を巡り次第に対立するようになる。日本は昭和金融恐慌以後の苦境からの脱出を満蒙開拓に求めた。「満蒙は日本の生命線」などとし円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。満州事変によって瞬く間に満洲および内蒙古東部を占領したことやその後の好景気によって、政党政治よりも軍部の方が頼りになるという世論が支配的となり<ref>『昭和天皇独白録』「文庫版のためのあとがき」によると、「もはや政党者の手に政治を委せてゐては國家の前途危ふしといふ感が國民大衆の間に弘く浸潤しつつあった」などと書かれた文書が存在するようである。</ref>、その後の相次ぐ政治家の暗殺、軍部の暴走、さらにそれを抑制できない政治権力の弱さによって政治そのものが軍事化していった。<ref>五・一五事件、血盟団事件、二・二六事件などを参照のこと。五・一五事件に新聞は沈黙し批判したのは福岡日日新聞と信濃毎日新聞のみであった。</ref>満州事変そのものが、ヴェルサイユ体制の極東版ともいうべきワシントン体制に対する異議申し立てであったと言える。事変後、中国はいったんは日本と停戦協定を結ぶもののやがて抗日運動が起こり、日中戦争後の日本は徐々に国際的に孤立していく。
日本は当初、ヨーロッパ大戦に不介入の方針をとっていたが、ドイツの快進撃に近衛文麿政権は「バスに乗り遅れるな」として三国軍事同盟を締結した。これに対してアメリカは態度を硬化、米国内の日本資産の凍結と輸出を禁止し、ハル・ノートを呈示した。それを最後通牒とみなした日本の回答は真珠湾攻撃であった。第二次世界大戦の原因は必ずしもひとつではないが、日本の場合は、ヴェルサイユ会議において人種平等案を提議したものの拒否されたり、アメリカで日系移民が排斥されたりしたことに対する人種的な怒りも加わった。それがまた日本国内でアジアへの傾斜を支える思潮ともなっていたのであり、「大東亜戦争」あるいは「聖戦」という呼称が受け入れられる素地ともなっていた。
[編集] 両大戦間の国際情勢
[編集] ヴェルサイユ体制
第一次世界大戦後の世界情勢では、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが提唱した十四か条の平和原則に基づいて1919年にパリ講和会議が開かれた。提唱国のアメリカと日本、イギリス、イタリアと開催地のフランスの首脳を含む第一次世界大戦の戦勝国の代表団が参加し、参加国間でヴェルサイユ条約が締結され、翌年国際連盟を設立することを謳った「ヴェルサイユ体制」が成立した。翌年、国際連盟が設立されたが、肝心のアメリカが議会の反対とヨーロッパの情勢の影響を受けることを嫌ったため参加せず、ソビエト連邦とドイツが敗戦国であるために除外されていた。
パリ講和会議における「民族自決主義」は不貫徹なものであったとはいえ、国際法の一部となった。ヨーロッパ地域では、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビア、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアはこの時に独立を認められた。アジア・アフリカ地域では、イギリスは1921年に長年支配下にあったイランを、1922年にエジプトを独立させている。このことからヴェルサイユ体制は単なる列強の論理の具現ではないと言える。
ただ、旧ドイツ植民地及びオスマン帝国の領土を委任統治<ref>イギリスとフランスはサイクス・ピコ協定に基づき、オスマン帝国の領土を二分した。シリアとレバノンはフランスの委任統治領となり、イラク、トランスヨルダン、パレスティナはイギリスの委任統治領となった。また、南西アフリカ(現在のナミビア)は、南アフリカ連邦の委任統治領へ、南洋諸島は、日本とオーストラリアの委任統治領となった。</ref>の名の下、事実上、保護国化したことに加え、国境線は人為的なものであったことから、20世紀以降の民族問題は、より複雑で錯綜したものとなった。その際たる例は、中東地域におけるユダヤ人<ref>歴史的にユダヤ人は蔑視の対象であったが、ドレフュス事件を契機にシオニズム運動の勢いが増すこととなる。その結果、大戦後、5次に渡るヨーロッパからパレスティナへの移住が行われた。</ref>やクルド人であり、東欧地域におけるチェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアは、1つの国の枠内に少数派の民族を抱えることとなり、政治の不安定化や国境問題を抱えることとなった。
また、敗戦国特に英仏から戦争責任を問われ報復の対象となったドイツは巨額の賠償金を課せられうえ軍備を制限されすべての植民地が没収された。このためドイツでは社会不安によるインフレーションを招いた。
- 新たな植民地獲得
第一次世界大戦のヨーロッパの戦勝国は、国土が戦火に見舞われなかったアメリカに対し多額の債務を抱えることになった。その後債権国のアメリカは未曾有の好景気に沸いたものの、1929年10月にニューヨークのウォール街における株価大暴落から始まった世界恐慌は、ヨーロッパや日本にもまたたくまに波及し、共産主義国であるソビエト連邦を除く主要資本主義国の経済に大きな打撃を与えた。
この世界恐慌を打開するため、植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆるブロック経済を作り、植民地を持たない(もしくはわずかしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進出していった。例として、前者はイギリスのスターリング・ブロック、フランスのフラン・ブロックである。後者は1930年代の日本による中国大陸への侵略と事実上の傀儡政権である満州国の設立<ref>J.M.ロバーツ著、五百旗頭真訳『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』 (創元社 2003年)p.35</ref>、イタリア王国によるエチオピアの侵略やドイツによるオーストリアの無血占領(併合)が挙げられる。また、後者においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともなう軍部の台頭がみられた他、人種差別的志向の台頭が顕著なものとなったが、この人種差別的志向は植民地を持っていたイギリスやアメリカなどにおいても見られる現象である。
- 石油資源を巡る思惑
第一次世界大戦時に生まれた飛行機の戦争利用(戦闘機)、塹壕戦を打ち破る戦車等新兵器の開発は内燃機関の発達と共に急速に進展した。又、従来石炭を用いていた部分も多かった軍艦も重油を使用するようになった。つまるところ軍隊は石油なしには成立しない状況になった。それに伴って石油資源の確保は重大な問題となり、イギリスやアメリカ、オランダ等の国内外に石油資源を持つ国家がそれを外交手段として用い始めたが、ドイツ、イタリア、日本などいわゆる持たざる国家にとっては石油の備蓄と産出地の獲得が死活問題となった。そのためこれらの国々は海外に資源の確保と維持を求めた。特に日本の場合に開戦時期を決める大きな要因となった。
- 海軍軍縮の破棄
イギリスとドイツによる建艦競争という海軍事力の衝突が第一次世界大戦への一因であることはいなめない。その後も残された大国は仮想敵国に対抗するために建造計画を立てることになった。しかしながら海軍の軍備拡大競争は各国にとって経済的に大きな負担であり、海軍の軍縮は列強にとって避けることのできない大問題であった。アメリカ・イギリス・日本を中心とする主力艦艇に関するワシントン会議に始まり、補助艦艇に関するロンドン会議を経る。この間、各国は「海軍休日」ともいわれる日々を送るのであるが、それは、1934年に国際連盟を脱退した日本による条約破棄の通告によって終わりを告げた。日本が国際連盟を脱退したことにより世界は無条約時代に突入し、再び建艦競争の時代となった。建造能力において各国の差は大きく、日々広がる格差の拡大もまた、戦争の開始を決める大きな要因となった。
[編集] ヨーロッパ
- ドイツ
アドルフ・ヒトラー率いるナチスはミュンヘン一揆によるクーデターで権力の簒奪を図るが失敗し、ヒトラーは投獄された(その時に後のナチスの行動指針となる『わが闘争』が執筆された)。ミュンヘン一揆失敗の反省からヒトラーは合法的に権力を簒奪すべく党組織の強化を図った。
1932年に行われた選挙で第1党の地位を獲得し、そして1933年1月ヒトラー内閣が成立、2月のドイツ国会議事堂放火事件で共産党勢力の駆逐に成功すると、翌3月には全権委任法を制定させ、ヴァイマル憲法を停止させ、ヒンデンブルク大統領亡き後、ヒトラーはフューラーとなり完全に権力を掌握した(第三帝国の成立)。
ヒトラーはナチスによる画一的な全体主義国家の建設を推進し、軍事国家を構築していった。経済的には軍備増強及び国内の失業者を救済するためのアウトバーン建設で需要を喚起することにより世界恐慌を克服していった。
国際関係では、1933年には、国際連盟を脱退し、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄、再軍備を開始し(ドイツ再軍備宣言)、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を駐留させた(ラインラント進駐)。同年、国際連盟を脱退したイタリアとともに関係を結び(ベルリン-ローマ枢軸)関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟に、大戦勃発後は枢軸国に発展することになる。また、ヒトラーは民族自決主義の基に周辺諸国内のドイツ人居住地域を併合し、手始めに1938年にドイツはオーストリアを軍事的恫喝を背景に無血併合(アンシュルス)した。次いで、ズデーテン地方に狙いを定めた。この時、開催されたミュンヘン会談でネヴィル・チェンバレン英首相やダラディエ仏首相はドイツに譲歩の構えを見せ(宥和政策)、ドイツはズデーテン地方を獲得、チェコスロヴァキアを保護国にした。最終的にヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつける。ミュンヘン会談の合意を反故にされたイギリス、フランス両国はここに至り、急速にヒトラー率いるドイツとの対決姿勢をみせることになる。
- イタリア
第一次世界大戦における戦勝国であるイタリア王国であるが、イギリス、フランス、日本、アメリカなどの他の「5大国」のと比べその扱いは敗戦国に等しいと感じさせるほどに恵まれておらず、国民からは「名誉無き戦勝」と自嘲的に評されていた。戦後急速に経済が悪化し、右派、左派を問わず様々な政治勢力が主導権を握るべく対立し政情不安に陥っていた。その後ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がローマ進軍により権力を得て、反対勢力を排斥していくのに長くはかからなかった。また、元首であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニの政権奪取よりムッソリーニとファシスト党に対し友好的な態度を取り続けていただけでなく、積極的にその統治に協力していた。
イタリアもドイツと同様に持たざる国であり、世界恐慌の苦境を脱する為に、1935年イタリア領ソマリランドに隣接するエチオピア帝国に侵略を開始し、それが元になり国際連盟を脱退し、ドイツと接近した。
- ローマ法王庁(後のバチカン市国)
1861年のイタリア王国成立以来、教皇領を失った、ローマ法王庁は世俗的政策をそれまでになく一層打ち出してきた。第1次世界大戦後の『ヴェルサイユ体制』に関しては「平和のようなもの」(ピウス11世)と批判的であった。ムッソリーニ政権が誕生するとラテラノ条約を結び長年の対立を解消。バチカン市国となった。主権国家となった法王庁は各国との外交を活発に行う一方、社会主義政権を非難する一方でドイツ中央党を通じてドイツのナチス党に接近した。その後ナチスがユダヤ人などに対する人種差別政策を行うとそれを非難した。
日本の皇太子裕仁がバチカンを訪れた際にはそれを歓迎し、日本との国交樹立を模索したが、日本国内での「キリスト教アレルギー」の世論のなかで立ち消えとなった。なお、日本は1942年に昭和天皇の判断でバチカンと国交を結ぶことになる(『昭和天皇独白録』)。
- オーストリア
1930年代に首相の地位にあったキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースは隣国ドイツの影響で急速に浸透してきたナチスを強く軽蔑していた。<ref>彼はオーストリアこそが真のドイツの中心であると考えていた。</ref>このため、国内では極右組織の護国団と手を組んで社会民主党やナチス勢力と対峙させ、対外的にはイタリアのムッソリーニと同盟を結んでナチス・ドイツの南下を防止しようとした。1934年、彼は1934年の内乱を起こして社会民主党を禁止してオーストロ・ファシズムと呼ばれる神聖ローマ帝国を範とした独自の独裁体制を樹立した。社会民主党の状況を目の当たりにしたオーストリア・ナチスは危機感を抱き、1935年にクーデターを起こしてドルフースの暗殺には成功したが、政権奪取そのものには失敗した。
後継者のクルト・シュシュニックは、ドルフースの路線を継承したが、今度はヒトラーが直接シューシュニクに圧力をかけてナチスからの閣僚入閣と護国団の排除を行わせた。1938年にシューシュニクが国家の独立存続の是非を問う国民投票を行う決定をすると、ヒトラーは極秘にムッソリーニの了解を得ると軍隊をオーストリアに侵攻させ、首都ウィーンを占領してシューシュニクを逮捕した。ヒトラーは直ちにウィーンに乗り込んでドイツ軍を背景に組閣したオーストリア・ナチスの領袖ザイス=インクヴァルト新首相と併合条約を結んだ(アンシュルス)。
- チェコスロバキア
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国の解体にともない独立をボヘミア、モラビア、スロバキアのスラブ人地域が大同団結してチェコスロバキア共和国が成立した。領土のうちズデーテン地方にはドイツ人が多数居住し、ドイツとの間に紛争をかかえていた。ドイツにナチス政権が誕生するとズデーテン問題は顕在化しミュンヘン会談が開かれる。これによりズデーテン地方をドイツに割譲することと、チェコスロバキアの解体を定め、また1939年にフランスに対して相互援助条約を締結した。
- スペイン
1936年に勃発したスペイン内戦では、ファシズムのドイツとイタリアがフランシスコ・フランコ・バハモンデ率いる反乱側に航空機や戦車などをはじめとする最新兵器を貸与するなど積極的に物資的支援を行い、また反ファシズムであるマヌエル・アサーニャ大統領率いる共和派の人民戦線をソビエト連邦が支援したことで、同内戦は第二次世界大戦で使用されることになる兵器の実験場の様相を呈した。共和政府には世界中から義勇兵が参加したが、最終的にはフランコ率いる反乱軍が勝利した。大戦中は枢軸・連合双方の陣営から距離を置き、独裁体制の維持に成功した。
- フランス
フランスは第一次世界大戦の戦勝国であったものの、西部戦線の主戦場となったため国土は荒廃し甚大な損害を出した。そのためその総てをドイツに賠償金として負わせようとした。さらには普仏戦争によって失われたアルザス・ロレーヌにとどまらず、1923年にはルール地方にもベルギーとともに進駐した。
1936年にはレオン・ブルム人民戦線内閣が成立した。ブルムは大規模な公共事業を行う一方、軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させつつ不況からの脱出を図った他、労働運動の急進化を牽制しつつ、週40時間労働制、2週間の有給休暇制といった労働政策の充実を進めた。しかし、これらの政策は不況脱出につながらなかった上、その後は政治的混迷期が続き、隣国スペインで行われた内戦など、再度戦争の足音がヨーロッパを覆って来たにも拘らず本格的な戦争への準備はなされないままであった。
- イギリス
第一次世界大戦の戦勝国であるものの莫大な戦費の負担や植民地の独立、もしくは独立運動の激化などで痛手を負ったイギリスは、その反動で国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、ナチスが政権を握り、軍備拡張政策を取るドイツに対しては宥和政策を取ることに終始していた。そのために、1935年3月のヒトラーによる再軍備宣言後(ヴェルサイユ条約破棄)、ドイツの軍事力強化に対して強硬措置はとらず、むしろ同年6月には英独海軍協定を結んだ。
- ソ連
ウラジーミル・レーニンの死後、独裁的な権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵レフ・トロツキーの国外追放を皮切りに、反対派を次々と粛清し徹底的に排除することで独裁体制を確かなものにし社会主義路線を確立した。大粛清時<ref>ピークは1936年から1938年。</ref>には処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には1200万人以上の人が粛清された。<ref>J.M.ロバーツ著、五百旗頭真訳『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』(創元社 2003年)p.88</ref>そのために内政は混乱し、ミハイル・トゥハチェフスキーら有力な赤軍指導者の多くが粛清され軍備が疲弊していたこともあり、他国との軍事衝突に対しては消極的であった。
そのような状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドやバルト3国、フィンランドなどを手に入れるために、「天敵」とまで言われたドイツのヒトラーと1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結び世界を驚かせただけではなく、1940年6月にバルト三国にソ連軍を進駐させ、傀儡政府を作ってソ連に併合した。さらに1941年4月には、かねてから軍事的緊張状態にあった日本との間にも日ソ中立条約を結んだ。
- ポーランド
第一次世界大戦の結果として再び国土を回復したポーランドは、ユゼフ・ピウスツキの指導の元新たな国家建設を進めていた。ドイツとソ連という二大大国の間につくられた緩衝地帯の一つとして重要な場所に存在したが、バルト海への土地を確保するためにドイツを分割してしまう立場となった。また、国内にも多くのドイツ人をかかえることとなった。このことはドイツにとって領土獲得への口実を生み出させた。その後、1939年にドイツとソ連の間で締結された独ソ不可侵条約の付属秘密議定書での取り決めによって、ポーランドの分割が合意された。同年8月25日にイギリス・フランスに対して相互援助条約を締結した。
- ハンガリー
第一次世界大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、ハンガリーはオーストリアから分離してマジャル人が主体の王国を成立させたが、帝国解体後のトリアノン条約により新たなハンガリー国家の領土はハンガリー王国の歴史的地域より縮小し、マジャル人が住民の多数を占める地域がルーマニア(トランシルヴァニア地方)やセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(その後のユーゴスラヴィア、ヴォイヴォディナ地方)に割譲された事は、ハンガリー国民にヴェルサイユ体制への不満を抱かせた。1920年から摂政として国王不在の王国を統治したホルティ・ミクローシュは旧領の奪回を目論み、ヴェルサイユ体制の打破で利害が一致するドイツに接近した。
- スイス
1920年5月の国民投票の結果、スイスは、国際連盟に加入していたが、集団安全保障の理念に基づく国際平和の維持を試みた国際連盟の試みは、1933年のドイツと日本による脱退で破綻した。1934年のソ連の加盟は、スイスにとって、国際連盟への不信感を植え付けた。1918年以降、スイスと共産党率いるソ連の関係は険悪だったからである。
また、1935年のイタリアによるエチオピア侵略は、スイスにとって悩みの種を増やした。国際連盟はイタリアへの経済制裁を決定したが、スイスは自分の首を絞めかねない経済制裁に参加を拒否し続けた。
1937年のイタリアの国際連盟脱退は、スイスの立場が決定的に苦しいものとなった。国際連盟にとどまり続けることは中立の立場が失われることになりかねない。1939年5月、国際連盟に対して、「絶対中立」への回帰を承認させた。このような情勢の中、第二次世界大戦を迎えることとなる<ref>森田安一『物語 スイスの歴史』(中公新書、2000)pp.234-236</ref>。
[編集] アジア
- 日本
第一次世界大戦が終結しまもなくヨーロッパ経済が平穏を取り戻すと、戦勝国であり同じく国土に直接的な被害を受けなかったアメリカと同様に、戦争特需による好景気を謳歌していた日本の経済は不況となった。<ref>その不況についての主な内容はシベリア出兵による膨大な出費と、1923年に起きた関東大震災が更に追い討ちをかけていった。それによる経済状態の悪化で政情が不安定になっていき、1930年代前半ごろよりテロや五・一五事件、二・二六事件などに影響が現れている。</ref>さらにシベリア出兵における日本の積極的な軍事行動により、東アジアに利権を持っていた列強諸国を中心にその領土拡大の野心が疑われる。
日中の対立を背景に、1937年には盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発した。その後日中戦争が激化した結果、日本政府は1940年に東京で国際博覧会と同時に開催される予定だった夏季オリンピック、東京オリンピックの開催権を1938年7月15日の閣議決定により返上するなど、国民総動員で臨戦体制を固めてゆく。
1939年9月のドイツのポーランド侵攻後、1940年中頃にはドイツ軍がフランス全土を占領した。占領したことに伴い、日本軍はフランス領インドシナへ進駐したものの、この進駐にアメリカやイギリス、さらに本国をドイツに占領されたオランダなどが反発し、これらの国々と日本の関係は日に日に険悪さを増していった。なお、その後の1941年4月、ドイツの対ソ侵攻計画を予見してこれに対抗するため日本に急接近していたソビエト連邦に対し、日本政府は日ソ中立条約を締結する。
- 満州国
満州国についての経緯は、1906年に日本は国策会社である南満州鉄道を設立し、これ以降日本は中国大陸の北部(満州)における権益を急速に固めることになる。その後、1931年に勃発した満州事変などのそれまでの軍事行動の結果として、中国大陸北部を中心とする土地をさらに占領し、1932年には元首として清朝の愛新覚羅溥儀を執政<ref>後に1934年に皇帝に即位する。</ref>とした満州国を建国していた。
上記のような日本の行動に抗議する中華民国は国際連盟に提訴し、国際連盟はイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。当時、蒋介石率いる中華民国は度重なる内戦により治安が悪く、緩衝材としての満州国の必要性があることからリットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。
その後1933年2月に行われた国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)の賛成多数で可決された。可決の直後、松岡洋右日本全権は「このような勧告は受けいることができず、もはや日本政府は国際連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。その後日本は国際連盟を離脱し、1936年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなどイギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明にしてゆく。
- 中華民国
1937年に始まった日中戦争における日本軍との戦いに苦戦していた中国国民党の蒋介石率いる中華民国は、日本軍に対抗するために、内戦状態にあった中国共産党とともに抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を1937年に構築する。
また、蒋介石とそのスポークスマン的存在であった妻の宋美齢は、日本の中国大陸における軍事行動に対して懸念を示していたアメリカと急速に接近した。その後中華民国軍において空軍の教官およびアドバイザーを務めていたアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大尉は、日本の航空戦力に対抗するための「アメリカ合衆国義勇軍」を設立する際、蒋介石と親しく親中的な考えを持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領がこれを公認、支援した(詳細はフライング・タイガースを参照)。
- 南京国民政府
日中戦争の勃発に伴い、日本との徹底抗戦を主張する中華民国の蒋介石に対して、日本の近衛文麿首相は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その為に日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を求め、日本との平和交渉の道を探っていた汪兆銘を擁立することとした。そして、汪兆銘は日本の力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを集結し、蒋介石とは別個の「国民政府」である「南京国民政府」を1940年に設立し、日本との協力体制を築いた。
- タイ
これまで欧米列強の圧力に屈すことなく独立を堅持していたタイ王国は、フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン、シエムリアプ両州の返還を以前からフランスに求めていたが、1940年6月にプレーク・ピブーンソンクラーム首相は日本とフランスとの間に相互不可侵条約を締結し、中立政策を取った。
しかし、まもなくドイツがフランスを占領し親独政権であるヴィシー政権が成立すると、ヴィシー政権と同じく親独政策を取る日本軍がヴィシー政権下のラオスとカンボジアに進駐すれば、フランスに対する領土返還要求を実現することが不可能になると見て、9月にはラオスとカンボジアに対する攻撃を加え始めた。1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦が交戦する事件が発生し、これを見た日本は5月に泰仏両国の間に立って居中調停を行い、フランスにラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン、シエムリアプ両州をタイに割譲させた。
その後、日本軍が12月8日未明の対連合諸国参戦の1時間前にイギリス領マラヤのコタバルに上陸し、マレー半島を北上してタイ南部へ進出した。このような状況下でもタイ王国は中立を堅持していたが、12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった。
- イギリス領インド
イギリス領インドのスバス・チャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースなど独立運動家の幾人かが、宗主国と対立する日本やドイツなどと結託する姿勢を取るなどして宗主国の政府に揺さぶりをかけ続けた。
- アメリカ領フィリピン
1898年からアメリカの植民地となっていたフィリピンは、独立へ向けた運動が活発化しており、これを受けてアメリカ議会は1934年にタイディングス・マクダフィー法で10年後のフィリピン独立を承認し、翌1935年にアメリカ自治領政府(独立準備政府、フィリピン・コモンウェルス)を発足させ、大統領としてマニュエル・ケソンを就任させた。 しかしながら完全独立に向けた具体的な方針は一向に固まらず、多くの独立運動家からは不満の声が上がっていた。
- その他のアジア諸国(植民地)
第二次世界大戦前において、日本とタイ王国、中国大陸の中華民国の支配区域を除く全てのアジア諸地域は日本とイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国、およびアメリカの植民地支配下に置かれており、その動向は全て宗主国の政府に握られていた。
このような状況下に置かれていたため、日本や欧米諸国の植民地下に置かれていたこれらの国々の国民や地元政府の意思は、第二次世界大戦への参戦に対しては直接的には大きな影響力を持つものとはならなかったが、欧米諸国の植民地においては、数世紀の長きに及ぶ植民地支配に対する反感に基づき、オランダ領インドネシアや、上記のイギリス領インド、アメリカ領フィリピンなどでは当時から独立の声が高まっており、いくつかの国では独立運動指導者による組織的な独立運動も起こっていた。日本の植民地であった朝鮮と台湾では大日本帝國の厳重な治安維持体制の下で事実上独立運動は不可能となっていたため、隣接地域で組織的な独立運動が行われていた。
[編集] 南北アメリカ
- アメリカ
第一次世界大戦の戦勝国の1国であるアメリカは、ヨーロッパが戦場となっている間に世界の工場として活動し、国土が戦火による破壊を受けなかったことにより、戦後は未曾有の戦争景気を迎えていた。しかしその後の1929年に起きたニューヨーク証券取引所における株価の大暴落は世界恐慌を引き起こし、資本主義諸国を中心とした世界各国に経済的・政治的混乱を広げるきっかけとなった。
また、このような状況下で、職を失い社会に対する不満が蓄積した白人によるアフリカ系や日系アメリカ人などの有色人種に対する人種差別は、州政府に半ば黙認された形で活動を行っていたクー・クラックス・クランの台頭や、排日移民法の施行などの人種差別的な政府方針に後押しされますます増加した。また排日移民法は、この法律に狙い撃ちされた日本をひどく刺激することになった。
こうした中、恐慌による経済的混乱を打開することができなかったハーバート・フーヴァーに代わり、修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、公約通りテネシー川流域開発公社を設立。フーヴァー・ダム建設などの公共投資増大による内需拡大政策や農業調整法、全国産業復興法を制定し、さらに諸外国における戦争に参戦をしないことを公約の一つとして掲げ、三選をはたした。<ref>アメリカが不況から脱出したのは第二次世界大戦開始後である。</ref>
- 南アメリカ諸国
南アメリカ大陸においては、いまだヨーロッパ諸国や日本、アメリカなどの強国の植民地がその多くを占めるアジアやアフリカ大陸と異なり当時そのほとんどが独立国となっていたが、旧宗主国であり国民の多くを占める移民の出身元でもあるヨーロッパ諸国と経済的、政治的つながりの強い国が多かった。その中でもコロンビアやブラジル、チリなどでは航空産業や鉄鋼などの基幹分野において、ドイツ系企業やドイツ系移民が経営する企業が中心的な地位を占めていた。
しかし、1930年代に入りナチス党率いるドイツによる脅威がヨーロッパで高まる中、地理的に近いことなどから南アメリカを「自国の裏庭」と考えるアメリカは、それらのドイツ系企業に対する乗っ取りや政府による接収を行なわせることによって、それらのドイツ系企業からドイツ人を追放させ、基幹分野においてのアメリカの影響力を維持した。
[編集] アフリカ諸国・植民地・オセアニア
アフリカ諸国も、日本とタイ王国を除くアジア諸国と同様、全てイギリス、イタリア、フランス、スペイン、ベルギーなどのヨーロッパ諸国の植民地であり、戦前からいくつかの国で地元国民による組織的な独立運動が行なわれていたアジア諸国の植民地とは対照的に、イタリアの植民地であったエチオピアなどいくつかの国を除き、ほとんどの国で戦前には組織的な独立運動が起こらなかったこともあり、国民や地元政府の意思は第二次世界大戦への参戦に対してはなんら影響力を持つものとはならなかった。
- オーストラリア
日露戦争後の日本の興隆を目の当たりにしたイギリス連邦の自治領であるオーストラリアでは、日本を有望な市場と見る一方、軍事的な脅威であると言われるようになった。そのため日英同盟を歓迎しつつ、独自の海軍の建設を進めてきた。大恐慌以後はイギリスのブロック経済に組みこまれることになった、オーストラリアは最後の仮想敵国、日本に対して組織的な諜報活動を行う一方宥和政策を推し進めた。
さらに第一次世界大戦でドイツが敗北し、ドイツ領南洋諸島の宗主権が戦勝国の日本に移される際には、フィジーやバヌアツなどの赤道以南の諸島は例外とされオーストラリアの支配下に入った。オーストラリアはイギリスの軍事力に依存しつつ、赤道を生命線に安全保障政策を構築していった。また仮想敵国の一つドイツがなくなったためオーストラリアの安全保障は対日本政策が中心となるようになった。
[編集] 大戦の経過(欧州・北アフリカ)
欧州・北アフリカにおける大戦の経緯は、1939年にドイツがポーランドへ侵攻したことにはじまる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増していき、1941年には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツやイタリアの枢軸国の勢いが徐々に収まっていき、1943年には連合国が優勢になり、ヨーロッパの枢軸国が衰退した。1944年には連合国の勢いが更に増し、1945年には追い込まれたヒトラーが自殺し、ヨーロッパの枢軸国が次々と降伏して欧州・北アフリカにおける戦争は終結した。
[編集] 1939年
9月1日の早朝に、ドイツ陸軍の戦車と機械化部隊、戦闘機、急降下爆撃機などを主体とする機動部隊約150万人と5個軍によるポーランドに対する侵攻(ポーランド侵攻)が行われ<ref>なお、この時ドイツによる事前の宣戦布告は行われなかった。</ref>、これを受けてイギリスとフランスは、2週間前に結んだポーランドとの相互援助条約に基づき9月3日にドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することとなった。
これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソビエト連邦軍もポーランドを東方から侵攻したが、ポーランドとの相互援助条約が存在するにもかかわらず、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランスとイギリスは宣戦布告には至っていない。これに味をしめたソビエト連邦は続いてポーランドと同じく隣国になるフィンランドに侵略を開始した(冬戦争)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。
総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍は、ドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1ヶ月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。
フランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていた。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始しており、反共産主義という点で一致していたイギリスとフランスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。
11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、ドイツ軍内部の反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。
[編集] 1940年
この年の4月に、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーを突如侵攻し(北欧侵攻)まもなく占領した。しかし、この作戦遂行を通じて、海軍国でもある両国に比べ脆弱なドイツ海軍は大型艦艇の多くを損失した。また、同時期に単独で冬戦争中であったフィンランドはソビエト連邦と講和している。
西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといったいわゆるベネルクス諸国に侵攻(オランダにおける戦い)、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。
まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、外国からの侵略を防ぐ楯となるものとしてフランス軍民から大きな期待を持たれていたフランス国境に築かれた巨大要塞・マジノ線を迂回し、アルデンヌ地方の森を突破してフランス東部を電撃戦にて瞬く間に制圧した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。
ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたフランス軍を救うためにイギリスは、ダンケルクの戦い(ダイナモ作戦)を展開し、6月4日には34万人の英仏軍救出作戦を完了した。この際にヒトラーが、救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜を出し、撤退時にダンケルク周辺に多くの兵器を廃棄したものの精鋭部隊を救出することができた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
このような動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。<ref>法的にはペタン率いるヴィシー政府は合法的な正統政府であり、ド・ゴールの自由フランスは、新政府の方針に反旗を翻し脱走した陸軍将校ド・ゴールによる非合法的な亡命政府ともいえる。</ref>
また、ドイツによる対フランス戦の末期の7月10日、枢軸国の一員でドイツの盟友であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。そして、北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したが、参戦の準備がきちんとなされないまま性急に参戦したことなどから、どちらも反撃にあい逆に侵攻されてしまった。
また、7月にはイギリス軍とアメリカ軍がフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍の艦船を、ドイツ側の戦力になることを防ぐことを目的に突如攻撃し大きな被害を与えた(カタパルト作戦)。この時期のフランス領アルジェリアのフランス海軍の艦船はヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦船を破壊し多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスでさえイギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがこれは失敗に終わった。
ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、当面の最大の敵であるイギリス本土への上陸を目指し、7月頃よりイギリス本土上陸作戦である「アシカ作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。なお、この頃イギリス政府は、ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ撤退する準備を開始するとともに、ドイツ軍による市街地爆撃の激化に対応し学童疎開を本格化させる。
ドイツ空軍の爆撃機による昼夜を問わない連日の爆撃に、ウィンストン・チャーチル首相に率いられたイギリス空軍とイギリス国民は国家を挙げて必死に抵抗し、スピットファイアやホーカーハリケーンなどの戦闘機や、当時本格的な実用化がなされたばかりのレーダーなどを駆使し、当時世界最強といわれたものの、護衛戦闘機の航続距離が短いために、爆撃機に対する十分な護衛ができないドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、あわせてドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが被害の大きい昼間の爆撃も中止するなど、事実上イギリスが勝利を収める。
[編集] 1941年
イギリス軍は自らの植民地であるイベリア半島先端のジブラルタルと、北アフリカのエジプトにあるアレキサンドリアを東西の拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海<ref>イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海のことを「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。</ref>を確保して枢軸国軍に対する侵攻を企画していた。このような動きに対してドイツ軍は、イギリス軍との戦いに劣勢であったイタリア軍の支援のために、ユーゴスラヴィアやブルガリアなどのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻するとともに、クレタ島の戦いにおいてイギリス軍に勝利し、同島を制圧した。<ref>また、アフリカ前線においては、北アフリカをはじめとするアフリカ全域に広大な植民地を持つフランスが降伏したことに伴い、北アフリカにあるフランスの植民地であるアルジェリアとチュニジア、モロッコ、東アフリカ沿岸のマダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。</ref>
その後、1940年9月にイタリア軍は北アフリカにおける連合軍諸国の影響力の低下に乗じてリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍に撃退され逆にリビアに攻め込まれてしまった。これに対しドイツのエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツ・アフリカ軍団」を投入して2月にトリポリに上陸する。その後は北アフリカのイギリス、フランスの植民地に対し次々に侵攻(クルセーダー作戦)し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を破りトブルク要塞を包囲しつつエジプト国境に迫った。
6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。
これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、ノモンハンの戦いにおける事実上の敗北以来対ソ戦に対して慎重である上、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は、南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト