第二次上海事変
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| 第二次上海事変 | |
|---|---|
中華民国国民革命軍の機関銃陣地 | |
| 戦争: 日中戦争 | |
| 年月日: 1937年8月13日 - 10月26日 | |
| 場所: 中国上海 | |
| 結果: 日本軍の勝利、南京攻略戦 | |
| 交戦勢力 | |
| 中国国民革命軍 | 帝国海軍第三艦隊 上海特別陸戦隊 中支那方面軍 第10軍 |
| 指揮官 | |
| 蒋介石、 陳誠 | 長谷川清海軍大将、 松井石根陸軍大将、 柳川平助陸軍大将 |
| 戦力 | |
| 約600,000名、 航空機200機 | 約250,000名、 航空機500機、 戦車300両、 軍艦130隻 |
| 損害 | |
| ~20万 | 数万 |
第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる国民党軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。
盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日華事変が波及した。
1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。
目次 |
[編集] 当時の状況
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1935年(昭和10年)ごろから中国人による日本人暴行・殺害事件が発生していたが、7月24日に宮崎貞夫一等水兵が行方不明となったため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。
この事件は当初、中国人に拉致された事件と報道され、日本は神経を尖らせた。しかし、この事件は宮崎水兵が軍紀違反の発覚を恐れて逃亡したという真相が後に明らかになった。
[編集] 事件の背景
この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は当時満州における領土主張は撤回してもよいと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった。
この戦略の基礎となったのが1930年代における独中間の軍事支援協定である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して築かれた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。
この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。
[編集] 大山事件
事件の発端は1937年8月9日に起こった、海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が関係した銃撃事件である。この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。
8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で銃撃戦が起こった。
この銃撃戦については、『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。
一方、『東京朝日新聞』1937年8月11日付けによると、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられている。
この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。日中共同の公式調査によれば、中国保安隊員は背中から小銃弾2発を打ち込まれて即死した。大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、頭部・腹部などに刃物・鈍器によると見られる損傷が見られた。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたという。
この事件の報告を受け、喩上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は当初、日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。中国側は、日本軍が事件以前から虹橋飛行場付近の偵察などを行い守備兵との衝突がおこっており、書面による抗議、再発防止を求めていたことを指摘するとともに、事態の拡大防止、事件の調査、外交交渉による解決を要請した。日本側もこの要請に同意し、中国側と共同調査を開始した。
[編集] 事件後の対応
8月10日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の歓説により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。[要出典]英米仏伊代表は賛成し、上海市長も実現する為にできる限りのことをすると約束した。これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。
8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。
8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。このため、日本領事は国際委員会を再び召集し、中国軍の撤退を要求した。
[編集] 戦闘の開始
8月13日未明、包囲した中国軍は国際租界の日本海軍陸戦隊と交戦を開始した。陸戦隊は戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。列強各国の調停の申し出を期待したためである。
英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。
- 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
- 日本軍は国際租界から撤退する。
- 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
会議中であった13日の午後から国民党軍機による空からの攻撃が開始された。これに対し、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。
長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍すでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は北支の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。
8月14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。
さらに国民党軍機が日本艦隊を空襲したが、この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人に2000人ほどの死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると報道したこともあった。日本海軍も、この日より九州から中国本土への航空機による空襲(いわゆる渡洋爆撃)を開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。
8月15日、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。
8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。
しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。
8月22日、上海派遣軍の帝国陸軍3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、上陸に成功。
その後9月上旬には上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐。同時期に中国側は、第二次国共合作を成立させ、又、華北の日本軍の南進が開始された。
10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。
10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入った。
[編集] 南京への追撃
10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。又、平行追撃と同時に敗軍の包囲のために南京を包囲する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京包囲を追認した。
ドイツの軍事顧問ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京市街での防衛戦にこだわったので、多くの兵力が南京周辺で日本軍に包囲された。少なくとも国崎支隊を中心とする包囲部隊が揚子江の対岸、浦口方面に進出する前に撤退を指示していれば、南京での国民党軍の損害は少なく抑えることが可能だった。
これ以後の南京付近での戦闘は南京攻略戦や南京事件を参照のこと。
[編集] 補足
- この間両国は互いに宣戦布告を行っていない。これは両国共に外国からの資源輸入に経済を依存しており、経済を維持するためには宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が連合国に宣戦布告してからとなった。
- この一連の戦闘に、国民党軍は60万以上、日本軍は20万程度の兵力を動員し、攻撃側が少数にもかかわらず多数の国民党軍を殲滅するという大勝利を収めた。日本軍の死傷は数万程度と思われるが、この戦闘におけるキルレシオは第一次世界大戦のどの塹壕戦よりも高い。
- また、国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事援助を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる。
- 第一次世界大戦の軍事的常識から言えば、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う。占領軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認するのが普通である。
[編集] 参考文献
- 洞富雄『南京事件』(新人物往来社、1972年4月25日)
- 『現代史資料(12) 日中戦争(四)』(みすず書房、1965年12月15日)
- 『Japan in China シナ大陸の真相 1931~1938』K・カール・カワカミ著、福井雄三訳著(展転社、2001年1月7日)ISBN 4-88656-188-8
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク

