第一次ウィーン包囲

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第一次ウィーン包囲(だいいちじうぃーんほうい:Erste Wiener Türkenbelagerung)とは、1529年スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルグ家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。

概要を説明すれば以上であるが、ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑である。この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、またそのハイライトとして行われた戦いである。またドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。

歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は18世紀まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめる事にもなった。

目次

[編集] フランスから見た経緯

当時のフランス王はフランソワ1世である。当時のフランスは、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。これがイタリア戦争である。

1519年にハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワは時既に、ハプスブルク家のカール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。

しかし、この目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。結果、先の懸念は現実の物となりフランスは、ハプスブルグ家とスペインによって東西から挟まれてしまう格好になった。この事態に対して敵の敵は味方とばかりにフランソワは、ドイツ国内のザクセン公などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカールの敵対勢力と次々に手を結び、カール包囲網を築きあげていった。その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。

[編集] オーストリアから見た経緯

カールが皇帝に即位した時の神聖ローマ帝国(つまりドイツ)は、時折りしも、宗教改革の嵐が吹き荒れている最中であった。元々カール自身は熱心なカトリックであったが「神聖ローマ皇帝」という存在自体が 「カトリックの守護者」という大前提の元に成り立っていた。つまりローマ教皇はカトリックを守護することを前提としてドイツ王に帝冠を与えるという側面を持っていたわけである。

こうしてスペイン国王についで神聖ローマ皇帝の座を射止め、自信に満ち溢れていたカールは、皇帝たる自身の声によって直接説得を行う事によって、宗教改革を終息へ向かわせる事が可能だと考えていた。マルティン・ルター自身を帝国議会に招集し、自らの説得を行ったカールだったが、しかしルターは自らの信条を翻そうとはしなかった。結果、カールは彼を異端と宣言し、彼から法の保護を剥奪し、ルター派の活動は絶対に認めないとの立場を明確にした。身の危険が迫ったルターはザクセン公の庇護下に入るが、これが長く続く神聖ローマ皇帝とルター派諸侯の対立の始まりであった。彼らルター派諸侯はフランス国王フランソワ1世の援助を受け、カール包囲網の一翼に組み込まれていく。

ところが、オスマン軍がバルカン半島への侵攻の度合いを強めると、皇帝カールは前言を撤回し、ルター派の活動を容認する立場に転化した。もちろんこれは国内の対立を一時凍結して、オスマンの侵攻への防御に全力を傾けるための方策であり、また詭弁に近かった。実際カールはオスマンがウィーンから撤退をはじめるとすぐさまこの発言を撤回している。

[編集] オスマン帝国から見た経緯

スレイマン1世率いるオスマン帝国は、その絶頂期を迎えており、東ローマ帝国陥落によって手に入れた、バルカン半島南部に続いてさらに北上し、ハンガリー、ルーマニアの獲得を狙っていた。すでにオスマン軍はベオグラードを陥落させ、ロードス島聖ヨハネ騎士団を打ち破っていた。また1526年にはモハッチの戦いラヨシュ2世率いるハンガリー王国軍を壊滅させ、ラヨシュを戦死させている。

これによってハンガリーは首都であるブダを放棄せざるを得なくなり、現在のスロバキアの首都である、ブラチスラバに都を移した。又国王の戦死により以降のハンガリー王はハプスブルグ家によって務められることになった。オーストリアにとっては、フランス、ドイツの情勢に気を取られている間に、背後のハンガリーをオスマン帝国によって奪われてしまう、危険な事態となった。

さらにフランソワ1世とスレイマン1世が同盟を結ぶと、すぐ背後に迫っているオスマン軍がフランスの意を受けて、オーストリアの首都であるウィーンを直接狙う事は、火を見るより明らかであった。

[編集] ウィーン包囲

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オスマン軍の補給線が延びきっており、補給がうまくいかなかった事。
すでに寒さが厳しくなってきている9月から10月の出来事で、寒さになれていないオスマン兵では包囲戦がうまくいかなかった事。
ウィーンがオスマン軍の最到達線である事。

[編集] 事件の影響

ウィーン包囲は失敗に終わったもの、ハンガリー王も兼ねる事になったハプスブルク家にとって直ぐに反攻しハンガリー領を奪い返すと言うことは出来なかった。ハンガリーが元の領土を復活させるのは1683年第二次ウィーン包囲に失敗したのちに、オーストリア軍、ハンガリー軍、ポーランド軍などが反攻し、オスマン軍を打ち破った後の1699年カルロヴィッツ条約の成立を待たなければならなかった。

オスマン帝国はその後も攻勢を続け、カールは1538年プレヴェザの海戦でオスマン海軍に敗退し、ヨーロッパ世界は地中海の制海権を失ってしまう。

何よりもオスマンの脅威をヨーロッパ世界に対して広く植え付けた事は大きい。このオスマン帝国によるウィーン包囲の第一次包囲と第二次包囲の結果の違いは、国力、政治力の差である。第一次はハプスブルク家の抵抗により長引いた包囲戦に加え、冬将軍が到来していた。オスマン帝国スルタンスレイマン大帝は、撤退を厳命し、粛々と去っていった。しかし第二次包囲戦では、オスマン帝国大宰相の勇み足と、無謀さが災いし、欧州諸国の参戦を招き、帝国の衰退をもたらした。第一次包囲戦は、戦略的にオスマン帝国の勝利をもたらし、スレイマン大帝によるオスマンの世紀を紡ぎ出したのである。

[編集] 関連項目

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