岐阜城

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稲葉山城 から転送)

岐阜城
岐阜県)</dd>

金華山山頂の岐阜城
通称

稲葉山城

城郭構造

山城

天守構造

不明

築城主

二階堂行政

築城年

建仁元年(1201年)

主な改修者

織田信長

主な城主

斎藤氏、織田氏

廃城年

慶長5年(1600年)

遺構

曲輪、石垣、土塁、復元天守・門、堀切

位置

北緯35度26分2.66秒
東経136度46分55.97秒

岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国の井之口(現在の岐阜県岐阜市)に建てられた織田信長が居城とする以前は、稲葉山城と呼ばれていたともいわれているが、信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。信長は尾張国愛知県)出身だが、尾張より岐阜を好んでいたといわれる。

目次

[編集] 構造

山城。難攻不落の名城として知られているが、歴史上6回の落城にあっている。 山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。 織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、永禄12年 (1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡からうかがえる。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。 岐阜城は合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間なのである。

[編集] 歴史

[編集] 鎌倉・室町時代

建仁元年(1201年)に、二階堂行政が山の上に砦を築いたのが始まり。続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。

15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。

岐阜城近影
岐阜城資料館
城から見た岐阜市街

[編集] 戦国時代

大永5年(1525年)、斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。天文2年(1533年)長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。

永禄7年(1564年)、斎藤氏の家臣であった、竹中半兵衛重治安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。

永禄10年(1567年)、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。

天正10年(1582年)、城主であった織田信忠本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀羽柴秀吉に敗れると、降伏。

天正11年(1583年)、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。

天正11年(1583年)から天正19年(1591年)の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。

慶長5年(1600年)、城主であった織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則池田輝政らに攻められて落城。

江戸幕府が成立すると、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に十万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城の櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも言われている。

[編集] 現代

明治43年(1910年)、模擬の城が再建されるが、昭和18年(1943年)に焼失。

昭和31年(1956年)、鉄筋コンクリート建築で岐阜城を復元。地理的展望がすばらしい観光名所として有名になる。

平成9年(1997年)、大改修が行われる。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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