稲荷山古墳

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稲荷山古墳
稲荷山古墳

稲荷山古墳(いなりやまこふん)は、埼玉県行田市さきたま古墳群内にある古墳

目次

[編集] 概要

  • 墳丘長120メートル
  • 後円部径62メートル・高さ11.7メートル
  • 前方部幅74メートル・高さ10.7メートル

二重の周濠を持ち、埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳である。 その造営年代は、古墳時代後期の5世紀の第4半期と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造された。

さきたま古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。

前方部分は、1937年干拓工事で取り崩されてしまった。しかし、2003年の復元工事でほぼ修復される。

もともと墳頂部に稲荷社が祀られていたのでこの名があるが、水田中にあったので土地の人は「田山」とも呼んでいた。

[編集] 副葬品

埋葬施設は、礫槨(れきかく)と粘土槨(ねんどかく)の二つがある。

  • 礫槨からは、画文帯神獣鏡1、勾玉(まがたま)1、銀環1、金銅製帯金具1、鉄剣2、鉄刀4、鉄鉾2、桂甲1、馬具一式、鉄族約200などが出土した。
  • 粘土槨は、盗掘されていたため鉄刀、桂甲、馬具などの断片を検出した。

[編集] 未発見の埋葬施設

この古墳の礫郭、及び粘土郭は、後円部の中央からややずれたところにあるため、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられている。また、後円部の両端近くに、それぞれ一つずつ埋葬施設があると推測する学者もいる。

他にも、1937年に前方部を崩したときに石組みが出てきて、中から固まった鏃、錆びた刀などが出土したと伝えられている。

[編集] 鉄剣・銘文

1968年の発掘調査で、金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘される。1978年、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が彫られていることが判明。国宝に指定される。鉄剣は471年に製作されたと推測されているが、一部では531年説もある。

(表)

辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

鉄剣や銘文の詳細は、金錯銘鉄剣鉄剣・鉄刀銘文にある。

[編集] 被葬者

被葬者ヲワケは、豊富な副葬品をもって葬られており、大首長またはその一族の有力者であった可能性が高いとみることができる。

ヲワケの出身をどのように考えることができるかで各種の説があるが、大きく三つの説に分けることができる。

  1. ヲワケを畿内の有力首長とし、礫槨被葬者はその部下で、この鉄剣を下賜されたとする説は、オオヒコが阿倍臣・膳臣の祖であることから両氏の内の一人とみる。
  2. 畿内の有力者であるが、東国に派遣されて礫槨の被葬者になったとする説
  3. ヲワケを東国の首長とし、礫槨の被葬者とする説

以上三つの説は、まだ仮説であり、いずれも決定的な証拠はない。

王賜銘鉄剣によって、5世紀中葉期の関東の小首長が倭王の基に武人として奉仕していたことが分かっている。第三の説の立場に立つと、ヲワケも伝統を受け継いで宮廷に出仕し、その力量を認められる幸運に恵まれて「杖刀人首」の地位を得たとも推量でき、また、自身の出自の由緒を誇示しようとして、八代の系譜を造作したと考えられる。だから銘文の末に「吾が奉事の根源を記す也」と特記している。このことから、ヲワケが、絶頂期にこの鉄剣をつくり、宮廷で誇示したものであろうことも推測できる。

以上のようにヲワケは東国出身の小首長であり、ワカタケル大王の宮廷に親衛隊長として仕え、死後に埼玉古墳群中では最初の前方後円墳である稲荷山古墳に葬られた人物とみることができる。

[編集] 関連項目

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