稲嶺一郎
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稲嶺一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父である。
1929年早稲田大学に入り、下宿先となった早稲田大学の恩師の娘と結婚。卒業後は南満州鉄道に入社。満鉄青年同志会を結成し、用務部長として十河信二や山崎元幹という満鉄有力者と個人的な関係を結んだ。満鉄駐在員としてバンコクに滞在し、タイの王族、華僑、現地有力者などとの間で親交を結ぶ。東南アジアの新しいリーダーと戦中に交際を深めたことが、戦後のアセアン人脈となる。
第二次世界大戦中は、海軍武官府に出向しインドネシアのジャカルタに赴任。敗戦後にはジャカルタ在住の沖縄人コミュニティーの中心的人物となり、インドネシア人に漁業技術等を伝授。インドネシア独立闘争を支援した容疑でオランダ当局によって投獄。
日本本土に帰国後は戦後すぐに結成された琉球人連盟に参加し、英語能力を生かしGHQ琉球課との接触の窓口を勤める。GHQ琉球課長ウェッカリングの依頼を受け、戦後初めて琉球人連盟を代表して、地上戦で荒廃した沖縄を1947年に訪問。沖縄県民から大歓迎を受ける。当時の沖縄は、米軍基地拡大により耕地を接収される一方、南洋群島や満洲から強制的に引揚民が帰還させられたため、過剰人口で溢れかえっていると稲嶺には見えた。
稲嶺は、沖縄の復興を戦前の最大の産業ともいうべき移民事業の再興によって、しかも、旧南洋群島への再移民許可によって行うべしとする報告書をまとめ、琉球課に提出し受理される。米国海軍の反対でその案が否定されると、ブラジル・アルゼンチンへの移民送出事業のため、沖縄民政府を代表し南米視察に出かける。移民事業は、旧南洋群島と共にアメリカの信託統治領に沖縄を編入して欲しいとする沖縄独立論を支える経済社会的土台であった。稲嶺が移民へ深く係わったのは、大東亜共栄圏時代に人口再配置による計画経済の影響を受けたことと、戦前の沖縄が移民を主産業として成立していた事実からであった。
屋良朝苗率いる沖縄教職員会主催の矢内原忠雄の1957年の沖縄訪問にも、移民事業は沖縄県再興の切り札として期待され、実際、ボリビア等に沖縄県民が送出された。後に、移民は瀬長亀次郎等の人民党から、「棄民」であるとの批判を浴び、又、日本本土への出稼ぎが本格化すると衰退していった。ボリビアのコロニア・オキナワは有名。
米軍とのコネクションを生かし、沖縄帰還後は、琉球石油(現在のりゅうせき)を起業し、正妻の内助の功に支えられながら沖縄県随一の企業へと育て上げる。
1970年に参議院議員に当選。3期13年務め、沖縄の発展に尽力。沖縄県保守勢力の中心的存在となる。
政界屈指のアセアン人脈の持ち主として知られた。独立闘争を支援したことから、インドネシアの建国記念式典に国賓待遇で迎えられたこともある。日本インドネシア友好団体協議会会長、日本カンボジア協会会長などの要職を歴任した。
[編集] 参考文献
稲嶺一郎『世界を舞台に』(沖縄タイムス、1988年)
金城達己『ボリビアコロニア沖縄入植二十五年誌』(ボリビアコロニア沖縄入植二十五周年祭典委員会、1980年)
浅野豊美編『南洋群島と帝国・国際秩序』(慈学社、2007年)
若月泰雄『発展途上国への移住の研究』(玉川大学出版部、1987年)

