禅
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目次 |
[編集] 概念
インドのディヤーナ(Dhyāna、サンスクリット:ध्यान)が中国で音写され禅那(ゼンナ)、禅(ゼン)になった。正しい表記は禪、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)以後は現表記となる。現代北京語の発音はチャンである。ディヤーナを現在の日本語にすると瞑想となる。ちなみにヨーガ(yoga)も現在の日本語にすると瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字である為、瞑想と禅は明らかに異なる物であり、本来は区別される。この瞑想と禅の混同は英語等の語彙の少ない言語を介して訳されて生じると考えられる。
中国では禅定が同義語。類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。「禅」あるいは「定」という言葉は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えれてきた。
[編集] 中国の禅
以下のように景德傳燈錄 などの中国禅の文献に記述されている。
インドではマハーカーシャパ(摩訶迦葉)から法が順に伝えられ、ボーディダルマ(菩提達磨)によってインドから中国に、禅の教えが広められたと主張し、権威付けを行っている。
マハーカーシャパはバラモン階級出身の弟子で、釈迦から法を嗣いだとされ、拈華微笑といわれている伝説が宋代の禅籍『無門関 』に見られる。
- 世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
- 世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。 第一巻(世尊拈華)
禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 - 651年)、五祖弘忍(601年 - 674年)以降である。
さらに六祖慧能(638年 - 713年)の名を使用し、弟子の荷澤神会が編纂したと考えられている『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』に新しい坐禅と禅定の定義が宣揚されたのを契機として発展したものと考えられる。以下に六祖壇経から該当部分を引用する。
- 師衆に示して云く、
- 「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
- 此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
- 善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
- 外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
- 只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
- 善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
- 菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
- 善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。 坐禅第五
さらに景德傳燈錄 に載せる、慧能の弟子の南岳懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。
- 開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
- 師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
- 一(道一)曰く「仏と作るを図る」
- 師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
- 一曰く「師、什麼をか作す」
- 師曰く「磨きて鏡と作す」
- 一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
- 「坐禅して豈仏と成るを得んや」
- 一曰く「如何が即ち是れなる」
- 師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
- 一、対無し。
- 師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
- 一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。 景德傳燈錄 巻第五
この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。
般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。
中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。
やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した「五家」観念が一般化して「五家」(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐阜派の勢力が伸長し、「五家」と肩を並べるまでになり、この二派を含めて「五家七宗」という概念が生まれた。
[編集] 五家七宗(ごけしちしゅう)
[編集] 臨済宗(りんざいしゅう)
晩唐の臨済義玄を宗祖とするが、唐末五代においては、華北に地盤を置いた臨済宗は、義玄の門弟三聖慧然、興化存奨以後、その宗風はさほど振るわなかった。存奨系統の南院慧顒、風穴延沼らが一部でその法統を継承するに過ぎなかった。
北宋代になって、延沼の弟子の首山省念門下の汾陽善昭、広慧元漣、石門蘊聡といった禅匠が輩出して、一気に宗風が振るうようになった。善昭門下に石霜楚円、瑯琊慧覚が出、蘊聡門下からは楊岐派の楊岐方会、黄龍派の黄龍慧南が出て、その一門が中国全土を制覇することとなった。
元の高峰原妙は、その宗風を、「痛快」という言葉で表現している。
[編集] 黄龍派(おうりゅうは)
宋代の中期以降に、慧南の系統が勢力を伸長し、楊岐派と共に、五家と肩を並べるまでになった。慧南の門下から晦堂祖心、東林常聡、真浄克文が輩出し、祖心の弟子の死心悟新、霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦、覚範慧洪らが出て活躍し、当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。
[編集] 楊岐派(ようぎは)
黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤、仏鑑慧懃、仏眼清遠という、「三仏」と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。
[編集] 潙仰宗(いぎょうしゅう)
潙山霊裕・仰山慧寂を祖とする。この系統も十国の荊南や南唐を中心として教勢を張ったが、その後は次第に衰退し、宋代にまで伝わることがなかった。
元の高峰原妙は、その宗風を「謹厳」という言葉で表現している。
[編集] 雲門宗(うんもんしゅう)
雲門文偃を祖とする。文偃門下の香林澄遠、洞山守初、徳山縁密らが唐末に一大勢力を形成し、五代末より北宋にかけて、隆盛を極めた。宋代には、澄遠の系統から現われた雪竇重顕、文殊応真系統の仏日契嵩が活躍した。重顕門下には、天衣義懐が出て、雲門宗の中興と称された。その後も、仏印了元や大梅法英らの禅匠を輩出し、北宋代には、臨済宗と比肩する勢いを有していたが、北宋末には、次第に衰退していった。南宋でも、『嘉泰普灯録』の編者、雷庵正受らが活躍したが、宗勢は振るわず、南宋末には系統が途絶えてしまった。
元の高峰原妙は、その宗風を「高古」という言葉で表現している。
[編集] 曹洞宗(そうとうしゅう)
晩唐の洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国の荊南や南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程である。
北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。
南宋代には、子淳の下から宏智正覚、真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。
河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、金代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫や雪庭福裕、耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、元朝において、道教の全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山の少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、明の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。
元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。
[編集] 法眼宗(ほうげんしゅう)
「五家」観念の初源となった『宗門十規論』を著した法眼文益を祖とする。五代十国では、呉越国王の銭氏一族が、永明道潜、天台徳韶、永明延寿らの法眼宗に属する僧らを保護したため、江南地方において、その宗勢が振るった。
宋代になると、徳韶、延寿の系統は衰退した。代わって、清涼泰欽や帰宗義柔の系統が、その主となった。泰欽門下からは、雲居道斉、霊隠文勝の師弟が出て活躍したが、次第に衰退に向かい、ついに北宋末には、その系統は断絶してしまった。
元の高峰原妙は、その宗風を、「詳明」という言葉で表現している。
さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。
[編集] 日本の禅
日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされているが、平安時代には既に伝わっており、檀林寺で禅が講義されたとの記録があり、また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。
鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになった。
[編集] 臨済宗(りんざいしゅう)
唐の臨済義玄を宗祖とする。日本では中国から臨済禅を伝えた栄西に始まり、その後何人かの祖師たちが中国からそれぞれの時代の清規を日本に伝えたため分派は多い。現在の日本の臨済宗は公案禅といわれ、江戸時代に白隠がまとめたスタイルである。公案とは、裁判の公判記録のことであるが、転じて禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいうようになった。それぞれの判例を一則、二則と数える。その対話を知ることにより悟りを知ろうとする。公案は論理的な思考によって理解する事ができない内容が多い。
臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大である。江戸時代、宗学が発達し、無著道忠(1653年 - 1744年)が現われ、諸本を校訂し、綿密を究めた手法を確立し、膨大な著述を残した。その著書は、近現代においても研究上の価値を失わない水準を有しており、影印版が実用書として出版されている。
[編集] 曹洞宗(そうとうしゅう)
六祖曹渓慧能と洞山良价から曹洞宗とした。日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。
道元は自分の教えは「正傳の佛法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。
初期は在家への布教にも熱心であったが晩年は出家第一主義の立場を取った(正法眼蔵十二巻本参照)。その後総持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式や密教の考え方も取り入れられ一般民衆に対し全国的に急速に拡大した。
曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことがそのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが公案そのものを否定しているわけではなく、また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。
[編集] 普化宗(ふけしゅう)
9世紀に臨済録に登場する普化に因み始まる。普化についての記録はほとんどない。虚托(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名。日本から中国に渡った法燈国師が、中国普化宗16代目孫張参に弟子入りし、1254年に帰国することで、日本に伝わった。本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていた。
江戸時代に幕府により組織化されたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって1871年に明治政府により解体された。宗派としては失われ、臨済宗に編入された(ちなみに一月寺は現在日蓮正宗に属する)。しかし、尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっている。
[編集] 黄檗宗(おうばくしゅう)
1654年(江戸時代)に、明から招かれた中国臨済宗の隠元隆琦禅師により始まる。臨済真宗を標榜しようとしたが幕府の許可が得られず、臨済の師黄檗希運の名を取り黄檗宗と称した。明朝風の禅と念仏が一体化した念仏禅を特徴とし、読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られる。また、1663年に萬福寺に設けられた戒壇をはじめ、各地で授戒会を開いたことで、江戸時代の戒律復興運動に影響を与えた。
[編集] 世界の禅(Zen Buddhism)
日本から世界へ禅が広まり、日本の禅が世界に最も良く知られている。 悟りを得たと言われている日本の学者鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカ、ヨーロッパへと禅が紹介され、曹洞宗の弟子丸泰仙によってヨーロッパで布教され、21世紀現在では、臨済宗、曹洞宗共にアメリカやヨーロッパに寺院を構えている。
[編集] 外部リンク
- 中国少林寺(禅宗の祖庭)
- 臨済禅 黄檗禅 公式サイト
- 臨済宗妙心寺派 東京禅センター
- 曹洞宗・曹洞禅ネット
- 国際禅学研究所(IRIZ)
- 花園大学 禅的教育研究所
- 臨済系のリンク集
- Shunkoin Temple
- SotoZen International
- 駒澤大学禅文化歴史博物館(耕雲館)
- 全国曹洞宗青年会
- 雲水ネット
- 雲水広辞苑 - 雲水(禅の修行者)の用語が解説してある。
- 安泰寺・一般参禅者受け入れの禅寺
- 原始佛教と禪宗
- 「Japanese Zen Buddhist Philosophy」 - スタンフォード哲学百科事典にある「日本の禅哲学」についての項目。(英語)
[編集] 参考文献

