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この項目では一般の宗教・哲学における神について記述しています。その他の神については神 (曖昧さ回避)をご覧ください。

(かみ)とは、人間の及ばぬ知恵知識を持つとされる存在の一種で、人間を含む生命やこの世界そのものなどを創り出した存在であるとされることもある。人知を超えた力や運命と関連づけられ、信仰や畏怖の対象となる。

世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える)、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。一方日本に限って見ると、日常生活においては神をさほど意識していない人が多数派に属するようである。

人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。神が存在しないと信じている者は無神論者と呼ばれ、神が存在するかどうかを知りえないと考える者は不可知論者と呼ばれることがある。

目次

[編集] 神の性質についての様々な考え方

神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。ちなみに、これらの考え方の中には互いに両立しないものもあるが、そうでないものもある。

  • 造物主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行った時に、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
  • アニミズム汎神論)における神。洞窟)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
  • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする考え方がある。例えばアインシュタインスピノザはこのような考え方を採ったことで知られている。
  • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は祈り、信仰、犠牲などに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方がある。
  • 人格神。神がと同じような姿や人格を持つとする考え方がある。
  • 遥か太古に宇宙より訪れたある『高度な存在』が、自然界の一生物に過ぎなかった頃の人類に様々な知恵を授けたり一部を改造したりして、人類の進化に寄与したのでは?とする奇説がある。(インテリジェント・デザイン)世界各地の神話に記される神とはこれらの『高度な存在』を示すものとする考え方。「2001年宇宙の旅」では科学的な神の定義をテーマにしている。

[編集] 多神教一神教の性格

一神教が、その性格上、他の宗教に対して排他的なのに比べ、多神教は他の宗教の神を「神の一柱(一人)」として取り込んで来た歴史がある。そのことは、社会的なレベルに今も影響しているように見える。

一神教においては、神は唯一の絶対的な存在であり、起源を人にしていない。神の以前には何も存在せず、神は現在も意志をもって影響を与えている場合が多い。

多神教においては、起源を実在した人間におく神と、そうではない神が存在する。また、その両方をもつ宗教的体系も存在する。

実在した人を起源に持たない神(以降「自然神」と書く)は、概念的な神であったり、自然の一部であったりする。また、概念的な神が山や岩、古い木などに宿る場合もある。

実在した人を起源に持つ神(以後「人間神」と書く)は、生前に特に著明な働きをしたり、神との接触を得たとされる場合がある。なお、神道においては、祀られた人物は全て神であるとされており、特に大きく祭られている人間神も、彼らだけが特別に神として扱われているわけではない。単に有名なだけである。

なお、神道では有力者が悲痛な最期を遂げ、その後に大きな災害などが起きた場合、その人物を大きく祭りあげる事がある(例: 御霊信仰)。災害の原因をその者の怨みにあるとして、祭りあげることで怨みを解消し、さらには災害をもたらした強大な力を利用して自分たちに有利な御利益を期待する。(祟り(たたり)の神を、逆に守護神へと転化する例)

[編集] 一神教

一神教の例として、アブラハムの宗教ユダヤ教キリスト教イスラム教がある。

いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じ、多神教を受け入れることはなく、また一神教同士でも対立し、更に言えば同一宗教であっても宗派間の抗争が絶えず、排他的性格が強い。時として異教・異宗派を排除したり改宗を強制してきた歴史がある。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられているとされる。キリスト教はイエス・キリストによって、イスラム教はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフによって、ユダヤ教を元に大幅に新しい体系が作り上げられた。

もっとも、一神教とはいえ人間を超えた複数の知的存在を体系の中に持っている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である。天使はある時は普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。例えば聖母マリアへの信仰も、厳密には敬愛であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアにお願いすればイエス・キリストに伝えてくれるという関係である。

またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護する存在であったり、特定のご利益をもたらしたりするという信仰もある。イスラム世界ではジンという存在が知られている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。

実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。成文化された教義と現実的な宗教行為が齟齬することも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。

なお、以前は排他的で他の宗教の存在を許さなかったキリスト教世界においても、現在は科学の進歩の影響により、以前は弾圧されていたような内容が広まって来ており、ニューエイジと呼ばれる。なお、ニューエイジは主にアメリカで始まり、インディアンの宗教性の影響が強い。またヨーロッパで過去に弾圧された宗教が様々な過去の資料をもとに再構築されている(これを当人たちは「復興」「再生」と称している)。

[編集] ユダヤ教の神

旧約聖書創世記天地創造においてヤーヴェ・エロヒムが人間のアダム・イシャーを作り、アダムとイブが神に背いたこと、「申命記詩篇箴言知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記列王記マカバイ記エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。

[編集] キリスト教の神

新約聖書は、神への愛と隣人愛の実践を説き、厳格で律法的なユダヤ教ファリサイ派を批判したイエス・キリストの半生を中心に描写している。後のキリスト教では、父である「神」・子である「イエス・キリスト」・仲介者である「聖霊」は「三位一体」と表現される。

[編集] イスラム教の神

旧約聖書創世記において、アブラハムの子であり兄弟であるイサクイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラム教の聖典クルアーンにはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、アッラーフ預言者であるとされている。

[編集] 多神教

多神教の例として、インドヒンドゥー教日本神道がある。どちらも、別の宗教の神を神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教をある程度取り込んで来た。完全に否定したり、改宗を強要したりすることは少なかったように見える。現在は日本において仏教と神道は分かれているが、明治の神仏分離令以前は区別が少なく混じりあっていた。ただし以上のことは主に実践的な面であり、教義上の論争は多神教どうしでも激しく行なわれていた。また、多神教は原始宗教を起源にする場合が多い。現在も存在する原始宗教においては、自然の多くの存在を神とみなす。(例: 原アメリカ人の宗教性、原オーストラリア人の宗教性)。日本の神道は、日本の原始宗教を起源にしている。ヒンドゥー教もまた原始宗教的な要素を残している。

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
イエス・キリスト

また、多神教においても、最初の神や、中心的存在の神が体系に存在する。しかし、他の神と同じ性質を持っていたり、ごく少数派であったり、経典の最初に名前とエピソードが出て来るだけで、体系の中における役割が少ない場合が多い。唯一神のように排他的な振舞いをすることは稀。

[編集] ヒンドゥー教

ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。

シヴァは実在した人物とも言われ112の瞑想テクニックなどを残しているが、現在のヒンドゥー教の体系の中では、三つの重要な神として扱われ、世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。

ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としているが、三つの重要な神のひとつで世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、偉大な仕事をした人を後にヒンドゥー教の体系に組み込むために生まれ変わりとされた場合がある。ちなみに、仏教の開祖ゴータマ・ブッダはヒンドゥー教の体系ではヴィシュヌの生まれ変わりで人々を惑わすために現われたとされる。

ブラフマン(梵天)も、三つの重要な神のひとつで、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。自然神としてのみ扱われているのか、対応する実在の人物もいない。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

なお、ベーダンタ系の宗教でも、いわゆる「神々」に対する説明がある。七つの身体論によると第四身体に意識的に到達した人物が肉体を離れると、その空間(メンタル界)に意識的に留まることができ好きなだけ留まることができる。肉体を持たずにこの世界にやって来たり、影響を与えることができる。これが、いわゆる神々であったり、いわゆる神のように振舞うことが出来ると考えられている。

[編集] 国家神道

神道においては、明治以降にキリスト教文化に対抗する目的で一神教を意識した体系として国家神道が再構成されている。その後、新しい体系はゆるめられたが現在も影響は強く残っている。それ以前にも神道は当時の政府の支配体制を強めるために、『古事記』の編集されたときにも体系が作り変えられている。体系が作り変えられる以前の神道を「古神道(原始神道)」と呼ぶ場合がある。

詳しくは神 (神道)を参照。

[編集] 仏教

仏教は本来は無神教である。また、現在は神と同様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。

さて、この仏教の無神性が他の多神教と結び付く原因になったと思われる。後の時代になって、仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。これには、仏教自身が、様々な地域に浸透していく中で、現地の神々を護法神として取り込んできた、という側面がある。大乗仏教では自体も事実上は有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。

現在は日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそも仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わった。やがて日本の市杵島姫神と習合した。(神仏習合本地垂迹説)

なお、仏陀になったゴータマ・シッダルタは自分の姿を記録したり崇拝することを許さなかった[要出典]が、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。しかし死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。ゴータマ・シッダルタの顔も身体つきも国や時代によって異なる。そもそも、実在のゴータマ・シッダルタではなく、仏陀という境地を彫刻によって写しているのだから、必ずしも実際のゴータマ・シッダルタの姿に似せる必要は無かった。

[編集] 仏教における神


仏教

基本教義
縁起四諦八正道
三法印四法印
諸行無常諸法無我
涅槃寂静一切皆苦
人物
釈迦十大弟子龍樹
如来・菩薩
仏の一覧
部派・宗派
原始仏教上座部大乗
地域別仏教
インドの仏教中国の仏教
韓国の仏教日本の仏教
経典
聖地
八大聖地
ウィキポータル

仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。

釈迦は、神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダンタの宗教を否定・捨てた人である。

日本の浄土真宗親鸞は、阿弥陀仏を非神話化し最晩年の手紙で「阿弥陀仏というのは自然(じねん)ということを知らせようとする手立て(手段)である」と教え、崇拝する対象も具体性の強い「阿弥陀仏の姿・画像」ではなく、抽象的な・観念的な「南無阿弥陀仏という文字」を専らにしている。更に、日本の神を拝むことを禁止し、和讃で、俗人が「鬼・神」を崇めるのを嘆いている。このため、浄土真宗では神棚を祭らない。また同じく真宗の曽我量深は「阿弥陀仏が存在するから信仰するのではなく、わたしが信仰するので阿弥陀仏が存在する」、金子大栄は「浄土は観念である」と教えている。これは阿弥陀仏や極楽浄土を実在するもの、実体と考え信仰する事を否定しており、これも無神論の流れを受けている。

この事が成立するのは仏教が縁起の道理、無我の上に成り立っているからである。このレベルでは、ブッダ(仏)と神は別のものであり、神は否定的存在である。また、天国や地獄といったようなものにも否定的である。

しかし釈迦仏教からかけ離れた「土着信仰を取り込んだ民衆レベル」になると、阿弥陀仏も極楽浄土も実在するものとして信仰されており、元来の仏教が土着信仰の中に飲み込まれて変質している。

同様に、日本では仏教が民衆レベルでは実態が土着の先祖霊崇拝(霊魂不滅を前提)になりきっている。仏教では本来、死後も残ると考えられていた魂(アートマン)のようなものを否定する立場なので、これは大きな逸脱である。

釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしないという態度をとり、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダンタの宗教を拒否しているとも受け取られる。

なお、原始仏典に、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人梵天ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧め、釈尊がそれに従ったという物語(有名な「梵天の勧請」の神話)などが残っている(賢愚経)。

一方、土着信仰の民衆レベルでは、仏も神々の一種でしかない。日本では死亡を「成仏」と、死者を「」と呼称するに至る。この場合の仏とは、単にお参りをする対象でしかなく、「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象にはならない。

[編集] ブッダ(仏)と神

一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わないが、ブッダであるゴータマ・シッダルタの対話に以下の例[要出典]がある。

『朝、ある人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在しない」と答えた。
昼に、別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在する」と答えた。
夜になって、また別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は目を閉じた。質問した人物も目を閉じて座っていた。そこに長い沈黙があり、しばらくして質問者は涙を流しながら、「ありがとうございました」と言って帰って行った。
深夜になって、アーナンダは仏陀に質問した。アーナンダは仏陀のいとこでいつでも仏陀の側にいて世話をしていた。「朝、昼、夜のあなたの答えは私を混乱させます。どうか説明して下さい」
仏陀は答えて言った。「まず第一にそれはあなたに対して答えられたものではない。あなたはそれを自分への言葉として受け取るべきではなかった。」
「朝来た人物は有神論者だった。私が神が存在すると言ったら、それは彼の信じ込みを強めるだけだった。」
「昼来た人物は無神論者だった。私が神は存在しないと言ったら、それも彼の信じ込みを強めて、真理への到達の邪魔をするだけだった」
「夜来た人物は、信じ込むタイプの人物ではなく、真実を知る準備が出来ていた。私は真実を示し、彼はそれを受け取って帰って行った。アーナンダよ、真実は語ることは出来ない。私は道を指し示すことができるだけだ」』

なお華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良い事も悪い事も全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。

[編集] 現代日本における神

現代日本においては、特定の宗教の熱心な信者は、他の国々と比べて必ずしも数が多くない。その一方で、各宗教団体が発表する公式の信者数の統計を加算すると日本の総人口を遥かに上回る数になったり、複数の信仰と結びついた儀式やまつりごとに同一の人間が参加したりすることも見られる。新年の初詣受験の願掛け、家を建てる際などのお祓い、クリスマス、結婚式、葬式など、人生の節目や年間の恒例行事の形で、宗教と関わる場面が現存している。

日本においては、神道及び仏教による多神教的伝統から、複数の神や宗教観の存在・並立を容認する風土がある。「神々」に対して寛容で世俗的ですらある。また、一般に、多くの日本人は神について口にすることを必ずしも恐れ多いこととはしない場合も多いように思われる。「触らぬ神に祟りなし」「捨てる神あれば拾う神あり」など神の語を含んだ諺があり、物語や歌などにも、神は頻繁に登場する。「打撃の神様」「神の手」「神様 仏様 稲尾様」のように,現役のすぐれた選手・技術者に対する敬称にも頻繁に使用される。

[編集] 悪魔

種々の宗教における悪魔は、異教の神を貶めた結果であるとか、序列を下げたものである、という説が広く見られる。

[編集] 自然科学との関係

日常的には、こんにちにおける自然科学の発達は、『神』の存在に対して否定的に働くものと考えられることは少なくない。 しかし、西洋における自然科学の発達は神への信仰と深く結びついており、アインシュタインニュートンヨハネス・ケプラーなど宗教的情熱を背景として自然科学の発達に大きく貢献した科学者は数多い。

ゼロの概念を生んだインド製紙法・火薬羅針盤の三大発明をなした中国ではなく、なぜ西洋において自然科学が大いに発展したのかについて、自然の中に神を見出すのではなく、神を自然とは全く異なる「万物の創造者」と考え、自然を克服の対象として捉える宗教観が根底にあるのではないかという指摘もある(場合によってはダーウィンのように、例外的に神そのものが克服の対象となることもある)。

実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学ケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。日本でも、本来神学校として創設された同志社大学などはこの名残か、工学部において宗教学が必修科目[要出典]となっている。

また、人間はその生物学的本質として、神の存在を必要とするという指摘もある。すなわち、時間の概念を認識し、かつ「」の概念を理解することができるのは人間の高度に発達した大脳においてのみであり、いずれ死を迎えるという未来に対して不安を抱く。死を始めとする自らの努力においてはどうしようもない未来に対する巨大な不安を和らげる為に人知を超越した神の存在を設定しようとする、というものである。

このような性質から、永続的な不安を感じることの少ない若い世代においては神への強い信仰は得られにくく、死という最も大きい不安を感じることの多い年配の世代になればなるほどに神への信仰を持つ率が高くなると言われている。また両親が信仰を持つことなどからの影響で信仰心を持つ場合も少なくないが、逆に家庭内での不和等が生みだす永続的な不安感を持つ者は絶対的な他者への救いを求めることへ繋がりやすく、新興宗教がその受け皿となることも多い。

ある学者が宗教的信仰心を持つかどうかについて年代別の調査を行なったところ若い世代ほど神への信仰を持たないという結果が生まれたことから、その学者は百年後には誰も神を信じることが無くなるだろうと予測した。百年後同様の調査をしたところほとんど同じ結果が出たということである。

[編集] 参考文献

  • 『宗教と科学の接点』河合隼雄 (岩波書店)
  • 『心理禅―東洋の知恵と西洋の科学』佐藤幸治 (創元社)
  • 『科学者とキリスト教―ガリレイから現代まで』渡辺正雄 (講談社)
  • 『アインシュタイン、神を語る―宇宙・科学・宗教・平和』ウィリアム ヘルマンス 著,雑賀紀彦 翻訳 (工作舎)

[編集] 関連項目

ウィキクォート神に関する引用句集があります。
ウィクショナリーに関する記事があります。

[編集] 外部リンク

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