特別高等警察
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特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)は、大日本帝国憲法下の日本で、治安維持の名の下に社会主義・共産主義など反体制思想の活動を弾圧した秘密警察。俗に「特高警察」(とっこうけいさつ)や「特高」(とっこう)と略される。政治警察を高等警察と称し、他の警察を普通警察と称するのは、フランス、ドイツの行政法用語に由来するものである。特別高等警察という名称については、天皇制維持(国体護持)が他の活動より特別に高等、重要であるとする思想から命名されたとする主張もある。
治安維持法の実行部隊であり、「票読み一つ誤らない」と恐れられた緻密さを持ち、殊に戦時中は、銭湯の冗談も筒抜けになるとまで言われた。
戦前や戦時中は、「特高の持つ手帳は赤色である」という噂がまことしやかに流れていた。「赤を狩るための赤」というわけである。だが、これは事実ではない。彼らの持っていた手帳も、警察と同様に黒色であった。もっとも、彼らはそもそも手帳を提示することをしなかったという。また手帳の色を確認出来るような人間と付き合うこと自体が危険だったことから起った噂である。なお、余談ながら、過去赤色系の手帳を持っていた公安職は麻薬取締官である。これは戦前も内務省衛生局の下にあり、色も同様だった。
[編集] 変遷
特別高等警察が最初に設置されたのは、アナーキストの天皇暗殺計画であるとされた幸徳秋水事件(大逆事件)を受け、1911年、警視庁に政治運動対象の高等警察から独立して、社会運動対象の特別高等警察課が設置された時である。この時、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれた。その後、警視庁の特別高等警察課は特別高等警察部に昇格する。
1924年には、大阪府や京都府といった主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、治安維持法が制定された1925年には取り締まりの法的根拠の整備が終わり、1928年に三・一五事件を受けて、赤化への恐怖を理由に全国配置が完了した。
第二次世界大戦中には、反戦運動や統制経済に対する弾圧・監視も行った。これに先立つ1933年には小説家小林多喜二が取調べ中に獄死、戦時中には横浜事件に代表される言論弾圧事件を惹き起こした。又、「鵜の目鷹の目」の監視網と密告網を張り巡らせた。
特高警察を指揮した内務官僚の代表格は、安倍源基(1894~1989)や町村金五(1900~1992。町村信孝の父)など。
第二次大戦敗北後も組織は存続したが、1945年10月4日に、GHQの指令により、治安維持法と共に廃止された。戦後、特高警察に関連する官僚たちは、殆どが他の機関と同様に公職追放されたものの、社会主義・共産主義者の恐怖を口実にした政策(1950年代のいわゆる「逆コース」)で、後に旧自治省・警視庁・公安調査庁、日本育英会などの戦後の特殊法人の上級幹部職に復職している。
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