淀殿

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淀殿浅井 茶々よどどのあざい ちゃちゃ永禄12年〔1569年〕? - 慶長20年5月8日1615年6月4日〕?)は、戦国時代から江戸時代初頭の女性で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)側室位階従五位下(諸説あり)。

近江戦国大名浅井長政の娘。母は織田信秀の娘のお市織田信長の姪に当たる。同母妹に(常高院、京極高次夫人)と/小督/江(後に於江与、崇源院、徳川秀忠夫人)がいる。異母姉妹に京極龍子の侍女(姥)となったくす(寶光院/放光院)、異母弟に浅井長門守井頼(喜八郎長春・号:作庵)がいる。 子に棄(鶴松、夭折)、拾(豊臣秀頼)。猶子に姪(末妹豊臣秀勝の娘)の完子がいる。 乳母は大野治長の母・大蔵卿局、大叔母海津殿(栖松院鶴千代)の次女・饗庭局前田利家の弟・佐脇良之室の大局(表局)(後に前田利常姥)の三人が明らかになっている。

生年は長らく永禄10年(1567年)とされてきたが、現在では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。(お市が長政に嫁いだのが1167年のため、万福丸とともに信長とお市の子という説がある)

目次

[編集] 名前について

茶々および菊子きくこ)。前者は生誕から死没まで一貫して名乗った名で、後者は朝廷より従五位下を賜った際に授かった名である。ただし「菊子」は公の場面のみで使用されたもう一つの諱であって、「茶々」から「菊子」へ改名したというわけではない。
通称は淀の方(よどのかた)、淀殿西の丸殿(にしのまるどの)、二の丸殿(にのまるどの)などが知られる。しかし、現在最も一般的に用いられる「淀殿」の名は同時代の史料には一切見られず、後世の呼び名である可能性が否定できない。
また、秀吉の死後に落飾して「大広院大康院)」(だいこういん)と名乗っていたという説もある(『浅井系統一覧』による)。
かつては一般に「淀君」という通称が知られていたが、この「○○君」という呼び方には暗に遊女・娼婦を意味する侮蔑的・差別的なニュアンスが強く、江戸時代に彼女をことさらにおとしめ卑しめる意図で用いられるようになったことが明らかになったため、1980年代後半頃から「淀君」は次第に使われなくなり、「淀殿」に置き換えられていった。さらに近年ではNHK大河ドラマの影響で単に「」と呼ばれることも多くなってきているが、この呼び方では(地名としての)あるいは淀城を指してしまうので、浅井茶々を指す呼称としては明らかに不適切かつ不正確である。

[編集] 生涯

[編集] 父・母の死

近江国(現在の滋賀県)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が母の兄・信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母とともに城を落ちた。(その後兄で浅井家嫡男の万福丸も信長の命により秀吉によって処刑された。)その後、伯父の織田信包に保護され、伊勢安濃津城(信包の居城)、または尾張清洲城(信包監督下にあった)に保護されていたという。

信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に殺された天正10年(1582年)、母お市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚すると、茶々は母とともに北の庄(現在の福井市)に移る。信長の死後に秀吉と養父・勝家が対立し、天承11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が破れると、お市は勝家とともに自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた。(実際に秀吉の直接的な庇護を受ける前、三姉妹は前田家越前府中城に保護を受けて、もしくは長政の長姉、昌安見久尼(阿久姫)に北近江実宰院で保護されていたとも。実宰院に保護されたのは小谷落城後とも北庄落城後とも言われているが、昌庵尼は後に姉妹を保護した恩賞に秀吉から知行を賜っている。その後一般的に叔父の織田長益の庇護の下、近江安土城に住み、後に聚楽第で伯母の養福院(京極マリア)の縁を頼って京極龍子(京極局/西の丸殿(大坂城)/松の丸殿(伏見城)/寿芳院)の後見のもとにいたといわれている。

実父・実兄・義父・実母の死亡にすべて秀吉が深く関わっているという、何とも皮肉な結果になっている。

[編集] 秀吉の側室に

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。秀吉はお茶々の母お市の方に憧れていたという。しかしお市の方は夫勝家とともに自害。このとき、城から脱出してきていた三姉妹を保護する。三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女お茶々を、側室に向かえようとしていたという。天正17年(1589年)にはお捨/棄丸(八幡太郎鶴松)を生み、この懐妊を喜んだ秀吉によって山城国淀城(現在残っている淀城の遺構は江戸時代に再建された淀城跡である)を与えられて「淀の方」と呼ばれるようになった(前述のように、実際にこの時点で「淀殿」と呼ばれた形跡は発見されていない)。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に秀頼(幼名:拾)を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局饗庭局らを重用して豊臣家政の実権を握った。

なお、鶴松を産んだときに高野山(持明院)へ父母の肖像画をおさめ、秀頼を産んだときに父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院浅井長政の院号。開基は一族の成伯。)を建立した。秀吉死後、高野山などの修復にも当たっている。

[編集] 徳川家康との対立

慶長5年(1600年)に五奉行石田三成五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣氏の直轄領は大幅に削減される。

関ヶ原の後に江戸に武家政権を構築しはじめた徳川家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否する。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされる。

墓所は京都市東山区養源院ほか。
大阪城公園にある淀殿・秀頼自害の地の石碑

戒名は大虞院英厳大禅定尼大虞院花顔妙香大広院殿英嵓と伝わる。

しかし、彼女が絶命する瞬間を目撃したものがおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に逃亡・生存説もある。

[編集] 人物像

  • 淀殿と大野治長とは乳兄弟であり、二人の密通が噂されていたという記録も残る。そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする俗説が当時から囁かれていた(片桐且元の子とする俗説もある)。
  • 淀殿は京都で放浪していた従兄織田信雄を大坂城に招いて住まわせたり、妹のお督徳川秀忠に再嫁する際に前夫羽柴秀勝との間にいた子供羽柴完子を引き取って我が子同然に育てた事も知られる(後に完子を猶子として秀頼に代わって右大臣となった九条忠栄に嫁がせた)。大坂の陣の際に秀頼を表に出さず自ら兵士の所に赴き督戦したことなどへの批判があったが、この時代に女性が戦場に登場するのは珍しいことではなく、城内では織田一族や片桐且元などの出奔の他には彼女のイニシアティブに対する造反の動きが表に出ることはなく、最後まで大坂城を掌握していたものとみられる。
  • 淀殿の死後、命日には墓前に毎年侍女たちが集まり、ひっそりと法要を執り行ってきた。そしてそれは侍女たちの子孫に引継がれ現在に至るまで続けられている。
  • 徳川と争えばお家を滅ぼす事になると、戦を回避しようと努力していた和平派の片桐且元織田有楽斎を追放した上で徳川の降伏案を蹴ったのも、淀殿の強権によるものが大きいと言われているが、実際は淀殿は自ら人質となることを承知したものの、総大将である秀頼が自らの母を人質にされることを嫌がり蹴ったらしい(且元は実際は家康に臣従し、豊臣家老という立場になっていたという事情もある。また有楽斎も家康に内通していたとも言われる)。
  • 淀殿が醍醐の花見の際に詠んだ和歌が三首残されている。「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」「あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに」「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」 
  • 大阪の陣のおり、息子秀頼の妻千姫をはじめ妹常高院、淀殿付きの多くの侍女を城外へ脱出させたという。また、江戸時代に作られた淀殿の人物像については、改められるべきであるとの強い指摘の声が多い。
  • 大阪の陣の頃からストレスからくる気鬱の病にかかっており、頭痛や激しい胸の痛みに悩まされていたという。
  • また、妹である常高院、崇源院とは幼い頃からたいへん仲の良い姉妹であったという。

[編集] 関連資料

近年刊行されている研究書
  • 福田千鶴著『ミネルヴァ日本評伝選 淀殿』(ISBN 4-623-04810-1
  • 小和田哲男著『戦国三姉妹物語』(ISBN-13: 978-4047032866)

他にも田畑泰子、跡部信らによって近年人物像の見直しが進められている。 特に秀吉妻妾の関係においては跡部氏の論文に詳しい。

[編集] 関連

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