浄土教
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| 基本教義 |
|---|
| 縁起、四諦、八正道 |
| 三法印、四法印 |
| 諸行無常、諸法無我 |
| 涅槃寂静、一切皆苦 |
| 人物 |
| 釈迦、十大弟子、龍樹 |
| 如来・菩薩 |
| 部派・宗派 |
| 原始仏教、上座部、大乗 |
| 地域別仏教 |
| インドの仏教、中国の仏教 |
| 韓国の仏教、日本の仏教 |
| 経典 |
| 聖地 |
| ウィキポータル |
浄土教(じょうどきょう)は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原型であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし、中国・日本においては阿弥陀仏信仰の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の浄土をさす。唐代の善導が「念念に浄土教を聞かんことを思い」(法事讃 )という場合の「浄土教」がその意味である。浄土教は「浄土門」とも呼ばれる。浄土思想とも。
[編集] インド
浄土教が成立したのは、インドにおいて大乗仏教が興起した時代であり、およそ紀元100年頃に無量寿経 と阿弥陀経 が編纂されて始まる。時代の経過とともに浄土教はインドで広く展開した。 阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書としては、龍樹(150年-250年頃)作と伝える『十住毘婆沙論 』(婆沙論)(易行品)、世親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈 』(浄土論、往生論)がある。観無量寿経 はインドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく4-5世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定されるが、特に中国・日本の浄土教に大きな影響を与えた。
[編集] 中国
中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(えおん)(334年 - 416年)が般舟三昧経 にもとづいて白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏結社を作った。やがて浄土三部経を根本経典として、山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(どんらん)(476年頃 - 542年頃)が『浄土論註 』(往生論註 )、道綽(どうしゃく)(562年 - 645年)が『安楽集 』、善導(613年 - 681年)が『観無量寿経疏 』を著し、五濁悪世の末法の世に適した称名念仏を中心とする浄土教が確立された。善導は活動拠点を都の長安に移し、龍門の奉先寺の大仏造営に参画している。のちに慧日(680年-748年)や五会念仏の法照(? - 777年頃)らが出て浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が助長された。
[編集] 日本
日本では7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられたが、9世紀前半に円仁(794年-864年)が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えた。やがて良源(912年-985年)が極楽浄土九品往生義、源信(942年-1017年)が『往生要集』を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。藤原頼通が築いた平等院も浄土思想に基づくもの。
平安時代の浄土思想は、主に京都の貴族の信仰であったが、空也(903-972年)は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説いた良忍(1072年-1132年)は融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(ようかん)(1033年-1111年)や真言宗の覚鑁(かくばん、1095年-1143年)のような念仏者が輩出した。
平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133年-1212年)が『選択本願念仏集 』(選択集)を著して浄土宗を開創し、『無量寿経 』『観無量寿経 』『阿弥陀経 』を根本経典と制定した。これを「浄土三部経」と称する。弟子の親鸞(1173年-1262年)は『教行信証 』等を著して浄土真宗の祖となり、一遍(1239年-1289年)は諸国を遊行して時宗を開いた。

