法相宗

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仏教

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法相宗(ほっそうしゅう)は、中国創始の仏教の宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ウァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。

この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的のものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。

玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690年 - 705年)に法蔵華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。

[編集] 教義

法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。

さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。

基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識

[編集] 日本の法相宗

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられた。

  • 653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
  • 658年(斉明4年) 入唐した智通智達も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
  • 703年(大宝3年) 智鳳智雄らが入唐した。
  • 717年(養老1年) 入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
  • 8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬(けんけい、けんきょう)、修円徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。

元興寺には護命(ごみよう)、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊貞慶覚憲信円らが輩出した。

1882年興福寺薬師寺法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。

[編集] 関連

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