江戸
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江戸(えど。外国語ではEdo、Yedo、Yeddo、Jedoなど諸表記あり)は、東京の旧称である。特に、江戸城を中心とする東京特別区中心部(東京都千代田区周辺)を指す。
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[編集] 概要
江戸時代には江戸幕府の所在地として、日本の政治的中心地であった。江戸城は徳川氏の将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれ、首都ではないが行政府の所在地であると同時に、自身も天領と呼ばれる所領を支配する一封建領主でもある徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。
1868年に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により東京と改称され、同年には町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された(1871年、廃藩置県に伴い新・東京府に更置)。だが、その後も「東京とは京都からみて東の都という意味に過ぎず、地名としては江戸のままである」とする考えも根強く存在してきた。
1889年に、市制施行で東京市となった。1943年の戦時体制下で、東京府と東京市は廃止されて、東京都が設置された。
江戸の町は、大きく分けて見ると江戸城の西に広がる山の手の武家屋敷と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された川越、栃木市、佐原などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点から「小江戸」と呼ばれている。
[編集] 歴史
[編集] 徳川氏以前の江戸
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。
地名の語源は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。
江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。11世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵したときすでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっており、初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。
鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に移した。
代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には長禄2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代、現在の神田川列びに日本橋川の前身である平川(平河)が、隅田川に流れ込む辺りに城下町が形成され、江戸は関東の水運・陸運の中心地として発展を始めた。道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡と共に、江戸城は後北条氏の支城となった。徳川家康(三河守)の入府以前から、隣接する門前町浅草や品川湊と並んで既に繁盛していたのであり、それ以前が「荒れ野原」だったというのは江戸時代以後に徳川家康の業績を強調するために作られた話に過ぎない。
[編集] 徳川時代の江戸
とはいえ、一介の地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物が徳川家康であったことは、紛れもない事実である。
1590年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から江戸に移転するが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城を応急措置に留めて城下町の建設を進め、山を削り、江戸湾(東京湾)を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。
家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになると共に、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。
一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の江戸の都市計画の章で述べる。
1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』の「東都浅草本願寺」など、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
[編集] 世界一の人口と識字率
江戸の人口は1718年には100万人を超え、世界一に達していた。識字率も18世紀には70%を超えており、同時期の世界的都市、ロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界一を誇っていた。ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いている。ただ、人口に関しては、記録に残っているのは町人人口のみ(最大で60万人程度)であり、人口100万人とは、 幕府による調査が行われていない武家人口を加えた推計である。
[編集] 江戸から東京へ
1868年に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、薩長軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた。
同年、江戸は東京と改名され、翌1869年には江戸城に江戸行幸した明治天皇が入って「宮城」とされて、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった。東京の町並が東京市、東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
[編集] 都市
[編集] 江戸の範囲
江戸の地名で呼ばれる地域は、元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。
江戸時代前期頃の江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺のみであり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。 江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は1818年に地図上の朱引きで、さらに町奉行の管轄する区域は墨引きで示されるようになった。朱引きは旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む。墨引きは旧東京市の15区とほぼ一致する。朱引きは明治以降も存続し、数度の改正を経て、最終的には旧墨引に近い形となり郡区町村編制法施行時に旧東京15区となった。
江戸は、江戸後期に現在の、千代田区・中央区・港区・新宿区の東側(四谷付近まで)・文京区・台東区・墨田区・江東区の辺り、のちの東京市の内十五区部分ぐらいまで広がったといわれている。
以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。
元々、徳川家康自身が岡崎出身の一大名であったように、岡崎を初めとする西三河系の地名が、江戸には多く移植されている(例:秋葉原)。
実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であったし、太田道灌は、現在の神田川の前身である平川が、江戸城の西で現在の丸の内・日比谷一帯にあった日比谷入江に流れ込んでいたのを隅田川に流れ込むように改修、すなわち現在の日本橋川の流路を通すようにした。この改修により高橋、芝崎と呼ばれる平川の河口付近は江戸湾から海船と隅田川からの利根川・荒川水系の川船が寄港できる港町となり、江戸は南関東の交通の要衝となっていた。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。
しかし、江戸が都市として発展するためには、平川の南、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から平川(のちの呉服橋門付近)まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から平川を経て江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、平川と道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である平川の北岸、常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の芝、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。
江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本・御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。
家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって太田道灌以来の平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。
更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。
城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武は麹町台地、東の青龍は平川、南の朱雀は日比谷入江、西の白虎は東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道と四神相応に則っている点とされる。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。又、江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。
江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけで供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道が1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉が人口に膾炙する。
1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年に明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守閣も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。
大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野、浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。
[編集] 神社仏閣
[編集] 神社
[編集] 仏閣
[編集] 廟
[編集] 江戸近郊
[編集] 江戸の生活と文化
[編集] 娯楽
- 行楽(参詣、花見、月見、紅葉狩り、雪見など)
- 歌舞伎 - 市川團十郎 - 十八番、浄瑠璃(人形浄瑠璃、常磐津など)
- 落語、講談
- 錦絵
- 浮世絵 - 葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽
- 黄表紙本 - 戯作、洒落本
- 俳諧 - 松尾芭蕉、小林一茶
- 花火 - 玉屋、鍵屋
- 風呂
[編集] 服装
[編集] 食事
[編集] 諺・故事成語
- 江戸前
- 火事と喧嘩は江戸の華 >>江戸の火事
- 江戸の敵を長崎で討つ
- 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
- 江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
- 江戸っ子の梨を食うよう
- 江戸っ子の初もの食い
- 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め
[編集] 江戸を題材にした作品
[編集] 小説
- 岡本綺堂『半七捕物帳』光文社文庫
- 池波正太郎『鬼平犯科帳』文春文庫
- 宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』新人物往来社
- 司馬遼太郎『菜の花の沖』全六巻 文春文庫
- 半村良『小説 浅草案内』新潮文庫
- 宇江佐真理『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』文春文庫
[編集] 随筆
- エドワード・サイデンステッカー『東京 下町 山の手』
- 矢田挿雲『江戸から東京へ』中公文庫
- 宮部みゆき『平成お徒歩日記』新潮社
[編集] 映画
- 『写楽』 監督:篠田正浩
- 忠臣蔵関連作品
- 鬼平犯科帳シリーズ
- 銭形平次シリーズ
- 半七捕物帳シリーズ
- 水戸黄門シリーズ
- 大江戸捜査網シリーズ
- 長七郎江戸日記シリーズ
- 暴れん坊将軍シリーズ
- 『赤ひげ』、監督:黒澤明
[編集] 関連項目
- 江戸氏 徳川氏 太田道灌 江戸城
- 江戸東京博物館 都営地下鉄大江戸線
- 火消し 江戸町奉行
- 江戸っ子 江戸言葉
- 三田村鳶魚(江戸文化・風俗の研究者)
- 斎藤月岑
- 八朔
- 江戸(東日本旅客鉄道がかつて保持していたジョイフルトレイン)
- 伝統的工芸品 江戸切子
- 東京都 東京特別区 東京市 吉原
- 静岡市 駿府
- 岡崎市 三河国
- 日光市
[編集] 関連書籍
- 谷畑美帆 『江戸八百八町に骨が舞う』人骨から解く病気と社会 吉川弘文館 (2006年)ISBN 4642056130
- 鈴木理生 『江戸の橋』 三省堂 ISBN 4-385-36261-0
[編集] 外部リンク

